【どうすれば覚りに近づき至るのであるか?】
実のところ、覚りに至るこの一なる道には「これを知りこれを為せば覚りに近づき至る」というような固定的な教義は無く、また覚りに至る手続き的な修行法も何一つとして存在してはいない。
しかし、このように言うと、
では何をどうすれば覚りに近づき至るのであるか? そもそも覚りに近づくことはできないのか?
と問う者が現れる。 その問いには、次のように答えなければならない。
『人は、精励することによって、右も左も分からない混迷の中から何を為すべきであるかが次第次第に見えてくるようになる。 そして、人はそのように精励するなかでついにやすらぎの彼岸へと渡るのである。』
また、重ねて問うものがある。
精励するとは、具体的にはどういうことなのか?
この重ねての問いには、次のように答えなければならない。
『精励するとは、平等・信・徳行においてつとめ励むことを言う。 正しく精励したときには、後悔のない行為を為したという確かな充足を得るので自らそれと分かるのである。』
聡明な人は、自ら為す精励によって道を見い出し、精励によって道の歩みを堅固ならしめ、たゆむことなく歩み行きて、ついにこの円かなやすらぎ(=ニルヴァーナ)へと到達せよ。 覚りに近づき至るには、それが唯一の方法であるからである。