【次第次第に】

・ 人は、次第次第に疑惑を離れる。 そして、ついに一切の疑惑を去るのである。
・ 人は、次第次第に解脱に近づく。 そして、ついに解脱するのである。

しかし、これらのことはいかなる段階の説にも従わない。 では次第次第にとはどういうことなのであるか? それは次のようなことなのである。

たとえば、人が知恵の輪に取り組むとき、最初は何をどうしてよいか見当もつかないであろう。 しかしながら、熱心に知恵の輪に取り組む人は、まだ何も解けず、進んでいるのか堂々巡りしているのかさえも分からず、まるで無駄なことをしているように思えて来ても決して諦めないであろう。 そしてさらに熱心に取り組むならば、何となく解けそうな気がして、その知恵の輪の本質(真実)が少しずつ分かって来たような微かな感覚を覚えるのである。 そうして、ついに知恵の輪は解けるのである。 その時、かれは知恵の輪を解いたという確かな感動を味わい、同時にその知恵の輪の全貌を完全に理解するに至る。

そして、それがまさしくそのように起きたのはかれが次第次第に知恵の輪を解いたからに他ならない。

ところで、もしもかれが極短い時間で知恵の輪を外してしまったならば、本来味わう筈の感動を味わうことが出来ず、また解いたときに知恵の輪の全貌が理解されることもないであろう。 かれは、その知恵の輪をつまらない玩具としか感じられないかも知れない。 しかし、それでは知恵の輪に正しく取り組んだとは言えず、知恵の輪を解いたと言うこともできないのである。 なんとなれば、知恵の輪は解いて感動を味わってこそ知恵の輪として完成するのであるからである。 その意味において、かれが知恵の輪を次第次第に解かなかったのはまことに不幸なことであると言わねばならない。

この世では、次第次第にということがその本来の目的を完遂し完成させる基礎であり、本体であり、ことの本質である。 そして、人の覚りのプロセス(それを敢えてプロセスと呼ぶならば)も同様である。 次第次第にということは、まさしくこのようなことを指す言葉である。

それゆえに、逆説的ではあるが、次第次第に円かなやすらぎ(=ニルヴァーナ)へと近づいている聡明な人なれば、未だ解脱が起きないからと言って決して悲観するにはあたらない。 それがまさしく起きたときは完全に解脱して〈特殊な感動〉を生じ、円かなやすらぎ(=ニルヴァーナ)へと至るに違いないからである。 同時に、かれは覚りの全貌を理解するであろう。


[補足説明]
法華経にも次第次第にということが説かれている。 → 方便品第二・次第次第に功徳を積み...