【精励】

<精励>とは、平等徳行においてつとめ励むことを言う。 正しく精励したときには、後悔のない行為を為したという確かな充足を得るので自らそれと分かるのである。

平等において精励するとは、生まれながらに生じた立場や身分の違い、また社会的に生じた立場や身分の違い、あるいは個人的な思い込みになどよって誤って生じた立場や身分の違いの認識などのあらゆる立場の違いや身分の違いを超えて、自分と他の人々との間に横たわる心的な垣根を取り払うことを目指すものである。 これによって慈悲喜捨のこころが培われる。

において精励するとは、人間不信と自己嫌悪の原因が相手にあるのでも無く、また自分にあるのでも無く、それらの根元が人ならざる心的汚れや心的塵からの突き上げであることを正しく認識し、それらを根こそぎ取り払わんと願うことである。 すなわち、罪を憎んで人を憎まないこころを培うのである。 これによって、人は正しい信仰のあり方の確立するのである。

徳行において精励するとは、自力では気づくことさえ出来ない自分自身の心的欠点を他の人と正しく関わることによって目をそらすことなく認識し、そのような心的欠点を持たない人、そのような心的欠点を克服した(であろう)人を(無条件に)尊敬する心を培うことを目指すものである。 やすらぎの基たる、円かなるこころの確立を目指すのである。


人は、精励することによって何を為すべきであるかが次第次第に見えてくるようになる。 人は、精励することによって右も左も分からない混迷の中から、自分が今何を為すべきであるかが次第次第に見えてくるのである。 これこそが、精励の利益(りやく)でありすべてである。 このことを、釈尊は「海を渡る」と譬えている。

● ひとは信仰によって激流を渡り、精励によって海を渡る。 勤勉によって苦しみをを超え、知慧によって全く清らかとなる。(スッタニパータ)

● ひとは、信仰によって激流を渡り、つとめはげむことによって海を渡る。 勤勉によって苦しみを捨て、明らかな智慧によって全く清らかとなる。 ── 以下略 (ウダーナヴァルガ)

けだし、精励こそが、どの方向を見ても水平線しか見えない広い海の中で進むべき方向を常に正しく示してくれる唯一の羅針盤である。 人は、このようにして世間という名の海を渡り、ついに彼岸に達するのである。


[補足説明]
『我が国は和を以て尊しとなせ』という十七条憲法・第一条の言葉は、精励の意味を良くとらえていると言ってよいであろう。 けだし精励とは、為し難きを敢えて為そうとするたゆまぬこころの推進力であり、その障害が本能に基づくものであればあるほど精励する価値があるからである。 なぜならば、それが本能に基づくこころの障害であるゆえに誰しもがそれを克服することが難しいのであり、そうであるからこそ自ら敢えて精励する意義があるからである。 その最も困難なことを、他でもない自分が敢えて為し、自ら率先して克服しようとする揺るぎなき不断の行為こそが精励の本質である。 そして、正しい精励は正しい発心に支えられて生じるものである。