【聖求は恥ずかしいことではない】

妄執を超えることは容易ではない。 しかしながら、

 『妄執を超えることで、その道(=哀しみを知る道,=やさしい人たる道)を見つけたいと思う人』

は、ついに妄執を超えると期待され得る。 なんとなれば、それは宝の在処を記した地図を手に入れたようなものだからである。 聡明な人は、ついにその無上の宝(=覚り,=やさしい人たる境地)を我がものとするであろう。

解こうと思わなければ、知恵の輪が解けることはない。 しかし、解こうと思ってはいても答えだけ得ればいいと言うのでは、知恵の輪に取り組んだとは言えない。 それでは、知恵の輪を解いた感動を味わうことはできないからである。 知恵の輪は、自力で解いてこそ感動を味わうことができ、そうであってこその知恵の輪である。(知恵の輪として完成する)

妄執を超えようと思わなければ、人が妄執を超えることはあり得ない。 しかし、妄執を超えようとして手段を選ばず、ただ闇雲に突き進むならば、そもそも妄執を超える機縁そのものを生じるよすががない。 覚りの道は、一なる答え(=善知識,=仏智)を得て、それと同時に〈特殊な感動〉を味わってこそ完成する道であるからである。 気をつけて世を遍歴する人が、ついに妄執を超え、解脱を生じて円かなやすらぎ(=ニルヴァーナ)へと至るのである。

たとえ正しい教えを聞き知って、聞き知ったことを頭で理解したとしても、怠けて実行しないならばそれを理解したとは言えない。 この上もなく正しい教えは、実行してこそこの上もなく正しい教えとして完成するのであるからである。 たとえば、親が子に向けて発した躾の言葉が、子を正しく躾るに至って初めて完成するようなものである。

こころある人は、無上の宝の在処をこころに知って、それを真実に求める心を起こすべし。 それ(=聖求)は、諸仏に称讃されることであって、何ら恥ずかしいことではないからである。


[補足説明]

 → 釈尊の聖求経(中阿含経)