【観】

観は、言ってみれば思索を超えた思索であり、人をして覚りの境地に向かおうとするこころを培うのに役立つものである。 なんとなれば、観がまさしく完成しつつあるときに、過去に出会った一大事因縁を想起することを得たならば自ら解脱に至ると期待されるからである。

しかし、観は覚りの修行法そのものではない。 つまり、観を完成するだけで覚りの境地に至ることは無いと知らねばならないのである。 しかしながら、分かり難いかも知れないが、正しい観によって培われた徳豊かな心はいわば覚りの前提であることは間違いないことである。

なお、世間においては、観を止(シャマタ)および観(ヴィパッサナー)の二つに分けて別々に論じることも聞き及んでいるが、実際には止・観はその両方が相補的に存在するのが本当の姿(実相)である。 → 補足説明(2)を参照。 したがって、本稿では止・観を個別に論じることは行わず、併せて観と表現する。 また、観はいわゆる瞑想(メディテーション)や気づき(サティ)とは無関係である。


[観の環境と姿勢]
観は、目を普通に開けて行えばよい。 すなわち、目をつぶったり、あるいは半眼にしたり、どこかの一点を見据えたりする必要はない。 またこのとき、特に部屋を暗くする必要は無く、文字が読めるような通常の明るさで問題ない。 観は、できれば静かな場所で行うのが良いが、周囲の音や声が特に気にならないのであれば無理に静寂な場所を探す必要はないものである。 また観に際して、呼吸を意識的に整えようとしたり、座り方にこだわったり、背筋を無理に真っ直ぐに伸ばしたりする必要もない。 つまり、観は楽な姿勢をとって行えばよいのである。

[観の対象]
観は、衆生(苦にあえぐ人々)を観じることである。 このとき、架空設定した衆生の姿を観じるのである。 ここに、観において衆生を架空設定するのは、最も悲惨な境遇にいる純粋な衆生の姿を観じるためである。 すなわち、純粋な衆生は余りにも悲惨な境遇にあって、かつ余りにも無知であるために、自分自身が悲惨な境遇にいることさえ認識してはいない。 つまり、純粋な衆生は自分を救って欲しいなどとは夢にも思っていないのである。 そのような衆生を、如何にして救うかについて観じるのが観の本質である。

[慈悲観]
観において、あなたが慈悲に生きることを決心するならば、ついには慈悲心(清浄心:発菩提心)を得ることができるであろう。 この決心は、他ならぬ自らがブッダになろうと決意することによって確立される覚りに向かう発心である。 すなわち、慈悲観とは、衆生の真実のすがたを目の当たりにして、決して逃げることなく真正面から対峙し、この上もなく悲惨な衆生の苦を如何にして取り除くかについて思索を越えた思索をすることを意味している。 この観によって、ブッダの魂が培われる。

[平等観]
衆生を対象とした観において、平等を極めるならばついには平等心(本来清浄心:完成された発菩提心)を得ることができるであろう。 この観の終着点において、「衆生」と「ブッダ」は互いに平等の地位と尊厳とを確立するに至る。 この観において、衆生は完璧に死ぬことで完全に生かされ、ブッダは完璧に生きる(真に目覚めている)ことで分別を超えた喜捨の本当の意味を理解するに至るのである。 このとき、衆生はブッダに全面的にすがりつき、一方ブッダは衆生を全身・全霊で受け止めると同時に、甘んじて苦を受け止めている完成された衆生(へつらわない衆生と名づく)をこころから尊敬することとなる。 ここに至って、観を行っている人は、ブッダの立場も衆生の立場もどちらの立場も究極においては対等で変わりが無いことに気づき、自らの立場としてどちらを選択してもよいとさえ思うのである。 すなわち、どちらの立場も、究極では優劣を付けられない平等なレベルでのこころの充実と尊厳が安立していることに気づくのである。 これを、完成された平等観と名づく。 この完成された平等観を知ることが覚りに向けた観の主たる目的であり、そのようにして自ら得たこころこそが完成された発菩提心(ほとんど菩提心そのものと言ってもよい)に他ならない。 なお、この観を行う人はあくまでもブッダの立場に立って観ずるべきである。 決して誤って衆生の立場に立ってはならない。 この観によって、ブッダの行為のもといが培われるのである。

[特殊な感動]
正しく為し遂げられた観の終着点において、人は「生まれて初めて味わう特殊な感動」を知ることになる。 その特殊な感動は、生まれて初めて味わったものであるというはっきりとした認識(智)を自ら生じるのである。 その特殊な感動は、世間的ないかなる感動とも違っていることをはっきりと理解することであろう。 そして、この特殊な感動を知ることが、実は観の本当の目的であったのだと知るのである。


[補足説明]
覚りの前提として、観の完成が不要な人も存在している。 彼らは、生まれながらにして観が完成している人であり、善知識と呼ばれる。

[補足説明(2)]
止・観は両方が相補的に同時にあるのが本当の姿であるというのは、例えば電磁波が電界と磁界の片方だけで存在せず、両方が相補的(相依関係)であることによって初めて物理的に実在するということに似ている。(マックスウェル の電磁方程式) そして、電磁波はこの相補性ゆえに伝播するための媒質を無理に必要とせず、自分自身の相補性だけで真空中を伝わって行くことができるのである。(いわゆるエーテルは不要) 止・観が相補的であるということも、これに似ている。 つまり、止・観は片方だけで自立的に存在できない境地であり、もし存在するときには両方が相補的に同時に存在するものであるからである。 すなわち、正しい止(シャマタ)があるときにのみ正しい観(ヴィパッサナー)があり、正しい観が確立したときにのみ正しい止すなわち坐禅(不動の境地)が顕れるのである。 このことについて、釈尊の原始経典および慧能の六祖壇教ではそれぞれ次のように記している。

○ 明らかな智慧の無い人には精神の安定統一がない。 精神の安定統一していない人には明らかな智慧が無い。 精神の安定統一と明らかな智慧とが{同時に}そなわっている人こそ、すでにニルヴァーナの近くにいる。 {そのような}修行僧が人のいない空家に入って心を静め真理を正しく観ずるならば、人間を超えた楽しみがおこる。 個人存在を構成している諸要素の生起と消滅を正しく理解するのに従って、その不死のことわりを知り得た人々にとっての喜びと悦楽なるものを、かれは体得する。(ダンマパダ)

○ ── 善知識よ、われわれの法門は禅定と智慧の両方が根本である。 ゆめゆめ誤って禅定と智慧を別だと考えてはならない。 禅定と智慧は一体であって二つではない。 すなわち、禅定は智慧の主体であり、智慧は禅定の作用に他ならない。 智慧が発露するときこころは禅定の状態であり、禅定の状態は智慧によって顕現するからである。 善知識よ、これが禅定と智慧が同等なものであるという意味である。 覚りの境地を目指す人は、禅定によって智慧が生まれるとか、あるいは智慧を身につけることによって禅定が達成できるとか言って、禅定と智慧を互いに別だとあらかじめ考えてはならない。 そのような考え方をするものは、本来一つのものを二つに分けて考える愚を犯しているのである。 (そのような見解にとらわれている限り、)いくら口では善いことを言っていても心は善くないことになって、禅定と智慧が離れてしまうのである。 こころでも口でも等しく善を想い善を語り、内と外とが一つであってこそ、禅定と智慧は一体となるのである。 自らのこころで覚って仏道を行ずるのであり、そのときにはそのようなことについて論争すること自体が無くなるのである。 禅定と智慧とがどちらが後だ先だと論ずるのは、そもそも自分を見失ったもののことだと知らなければならない。 ── (六祖壇教)

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