【信仰のかたち】

真理は、いかなる宗教にも属さずどのような宗派にも帰順しないものである。 それゆえに、人が宗教によって解脱するということはあり得ないことであると言えるのである。 しかしながら、宗教を奉じている人が決して真理を見いだせないというのではない。 なんとなれば、人が今現在いかなる宗教を奉じ、またどのような宗派を信奉していようとも、かれが聡明であって、ことに臨んだそのときに人としてのあり得べき信仰を確立するに至ったならば、かれはそれによって人と世の真実を知り明らめることを得て、究極の真理(=智慧)を見い出すと期待されるからである。

それゆえに、こころある人は、世間において知られるいかなる宗教にも、宗派にも、その他真理と称する何ものにも、さらに如来の言葉にさえもこだわってはならない。 そのこだわり無き真理探究のありようこそが、正しい信仰のかたちに他ならないからである。

たとえ正しい道を歩んでいても、人が正しいとか正しくないとかということにこだわっているならば、それではかれは正しい道を歩んでいるとはとても言えない。 かれは、根本の疑念を払拭していないと知られるからである。 その一方で、今現在外道の説を奉じ、偏見を抱き、善からぬ行為を為し、世間の分別・価値論に随順し、あるいは虚無論に陥り、まさしく道を踏み外しているとしても、その人がことに臨んで混迷せず、こころを護って妄執を断ち切り、人と世の真実を明らめるに至ったならば、かれが歩んで来たその道は正しい道であったと認められる。

それゆえに、こころある人は「道」ということにこだわってはならない。 覚りに至る確固たる「道」があるなどと考えてはならない。 しかし、「道」は無いのであると断じるようでは覚りは遠いこととなる。 なんとなれば、それぞれの人がそれぞれに、ひとしく覚りの境地に至るその一なる道は確かに存在しているからである。 実際、道の人は、他人の過失を見ることなく、ただ自らの過失を見て、正しい省察を為し、ひとの行為の帰趨(=業)を見定めて、その楽味(味著)と過患とを知り、遠離の心を生じて、歩むべき堅固な道(=中道)をまるで当たり前のように見い出すのである。

もろもろの如来は、荒唐無稽のことを語り、それを信ぜよと言っているのではない。 けだし、心構え正しく、聡明であって、真理を知ろうと熱望する人なれば、真理について述べられた理法の言葉を聞いて真理の確かな実在をこころに知るのは間違いないことであるからである。

やすらぎを求める人は、そのあり得べき正しい信仰のかたちを自らによって確立し、もろもろの如来によって語られた真実の言葉を真実のままに領解せよ。 それが正しい信仰のかたちである。