【恕(じょ)すことと許すこととは違う】

ある人が何者であるか。 それは行為によって知られることになる。 その一方で、自分が何者であるかを知りたい人は、自分のまわりにどのような人が集い、どのようなことが起こるかを見ることによって知ることができるであろう。 それを正しく知ったとき、つまりその真実のすがたを(真実に)見たとき、かれ(彼女)は一切を超克している自分自身を発見することになるのである。

他人であれ自分であれ、行為を責めても許してもそれは時間つぶしに過ぎず、解脱の機縁とはならない。 しかしながら、他人であれ自分であれ人の行為の根本のそれ(=縁起)を見るならば、それが解脱の因(直接の要因)となる。 人は、 によって因果を妄想し、真如によって縁起(=ことの真相)を見るからである。

恕(じょ)すことと許すこととは、糖と蜜のように違うものである。 真如は甘露の如くであり、情は蜜のように苦い。 熟練工が、蜜を除いて糖を得るように、人はことに臨んだそのときに情を捨て去ってついに真如へと辿り着く。

こころある人は、心構えを誤ってはならない。 よく為された正しい省察によって、自らの道の歩みを浄めかし。