【空、無我ということ・[真如]】

子供には、子供らしい喜びや楽しみがあり、また子供らしい煩いと苦しみがある。 それ以外の子供らしいことがらすべてをひっくるめて、子供にはいわゆる「子供心」があると言えるであろう。 しかし、子供が大人になったならば、子供心は無くなり、大人としての心が見いだされることになる。(ここでは、それを「大人の心」と仮称する)

ところで、大人達は、自分の心について思惟・考研したとき、次のように理解する。

 ・大人の心は、子供心が転じて(つまり変化して)現れたものではない。
 ・大人の心は、子供心と別に予め(深奥に完成された形で)用意されていて、それが子供心に取って代わったものではない。
 ・大人の心は、子供心がある間に、秘して次第に醸成されて、それがあるときに子供心に取って代わったものではない。
 ・本質的に、大人の心は子供心と共存しない。 たとえば、通常物質は固体と液体が融点において共存し得るが、昇華物質はいきなり固体から気体へと昇華して共存しないようなものである。(基本的に中間状態・遷移状態が存在せず、それは相転移的に起こる)

さて、すでに大人になった人が自分の中の子供心を見たとき、自分自身が子供心について「空」であることを知る。 しかしもちろん、世に子供心が存在しないのではない。 子供達を見たとき、子供達の中には純然として子供心が見られるからである。 ただ、大人たる自分にとってはそれは「空」なのである。

真如もまた、そのようである。 解脱した覚者には、真如が見られるが、心は見られない。 無我もまた、そのようである。 解脱した覚者は、無我であって、我は見られない。 しかしもちろん、心や我がまったく存在しないのではない。 衆生には、心や我が見られるからである。

しかし、真如は心が転じたものではない。 真如は、最初から用意されていたものではない。 真如は、醸成されたものではない。 真如は、心と共存しない。 そして、無我も同様である。

子供達は、大人のことがらを真実には何一つ、極わずかでさえも知ることができない。 その一方で、大人達は子供心をすでに捨て去っているが、子供達の中に子供心を見て、子供らしい(子供じみた)ことがらを子供らしいことがらであると正しく理解する。(ただし、子供らしい実感は伴わない) そして、大人達は、子供心がまったく存在しないものであるであるとは言わないのである。 しかし、それはいつか消え去るものであると知っている。 衆生の心や我の有り様も同様である。 覚者は、それらが(解脱によって)止滅できるものであると知っているのである。

立派な大人達は、子供達に向かって立派な大人になりなさいと諭す。 もろもろの如来もまた、衆生に向かって人は誰でも仏になり得るのであると説くのである。 そこに至れば憂いがない。 それは、虚妄ならざるやすらぎである。

聡明な人は、空、心、解脱、真如、我、無我、虚妄ならざるものについてはこのように領解すべきである。 そして、自らにその真実を体現せよ。