【感謝】

世間では、感謝することは美徳であると認められている。 しかし意外に思うであろうが、人はいかなる感謝によっても、感謝の延長上にある何によっても、感謝にまつわるどんなことによっても、そのことによって解脱することはない。

そもそも人が無分別智(=仏智,=智慧)を得たとき、相手に感謝したり、誰かに感謝したり、自然や世界に感謝したり、超越者に感謝したり、あるいは自分自身に感謝したりする気持ちを生じることは決してない。 それどころか、この無分別智を得るにあたって最も重要な働きを為した善知識に対してさえ感謝の気持ちを生じることは無いのである。 なんとなれば、この無分別智は自らの因縁で生じ、自らの因縁によって我が身に顕現したものであると知るからである。

感謝の念は、それがいかなるものであろうとも詰まるところ思い込みの所産に過ぎない。 無分別智の出現を目撃して発心したとき、あるいは無分別智を得て覚りの境地に至ったとき、いかなるものに対しても感謝の念を生じることはあり得ないからである。

ここで、誤解を生じないように言っておくが、だからと言って感謝がまったくの無駄という訳ではない。 ただ感謝そのものは覚りの役には立たないということである。

たとえば、親が我が子を躾ているとき、その躾の言葉や躾の行為は子供に感謝されるものではないし、その場で感謝されるようでは躾とはならない。 しかし、子供は躾によって立派な大人へと成長するのは間違いない。 そのようにして立派な大人になったその子供は、親が自分を正しく躾てくれたことを知ることになるであろう。 しかしながら、このように躾が完璧に行われ、完成したとき、その子供は親に感謝することはないのである。 それどころか、感謝の念を生じるようではその躾には欠けるところがあり、完成していないと言わざるを得ないであろう。 躾とはそのようなものであるからである。 躾とはそのようであってこそ躾である。

世に稀有なる善知識の作用もそのようである。 それが完遂され、完成されたとき、そこにはいかなる感謝の念も生じることはない。 しかし、それは確かに人を発心させ、また解脱せしめるのである。

こころある人は、感謝を超えよ。 感謝にまつわるあらゆることがらについて、それは悪魔とその軍勢の所産であると知ってその牽引する軛(くびき)を断ち切れ。 しかしもちろん、感謝に値することを我が身に受けても感謝しないでもよいと言う訳ではない。 正しい感謝によって感謝の念を生じることなく、感謝によって束縛を受けず、感謝によって感謝の念を脱して、以てこの円かなやすらぎ(=ニルヴァーナ)へと到達せよ。 それを為し遂げたとき、感謝の真実について知ることになるからである。