【無分別智】

無分別智とは、智慧(諸仏の智慧)の別称です。 智慧は、いかなる分別の結果としても出てくることは無いということを明示するために、このような言い方をすることがあります。 また、無分別智が言葉の形をとって顕れ出たとき、その言葉を「法の句」と呼びならわします。


[実は二つあります]
無分別智には、実は2つあります。 一つは、覚りの境地に至るその直前においてそれが無分別智だと如実に認知されるそれ(根本智)であり、もう一つは、覚りの境地に至った後で、あらゆる行為を無分別に行いつつもそれが完全なる智慧、すなわち無分別智に他ならないことが後付けで認知されるというもの(後得智)です。 これら二つのいずれもが、その出所(ルーツ)に関してはあらゆる分別を超越したところにあるという意味で、同じく無分別智と名づけるのです。 これは、例えば「愛」という言葉が実は二つの意味に対応しているのに似ています。 一つは、プロポーズのときに如実に実感しているそれであり、もう一つは、結婚生活においてふと(後付けで)実感されるそれです。 「愛」や「無分別智」にはそれぞれに二つの意味合いがあるのですから、それぞれに別々の言葉があってもよいのですが、実際には同じ「愛」や「無分別」という一つの言葉に集約されてしまうのです。 つまり、その根っこのところは同じである所以です。

[分別から出てくることはない]
ここで、分別とは、人が生まれてこの方得たあらゆる経験要素や、人類がその長い歴史において集積したあらゆる集合的要素によって導出される人為的な思惟弁別作用のことを指しています。 分別としての思惟弁別作用には、論理的(分析的)に得られるものもあり、直感的(弁証法的)に得られるものもあり、規範として(経験的)得られるものもあり、挑戦的(実践的)に得られるものもあり、綜合的(科学的、哲学的、法学的、神学的)に得られるものもあります。 そして、無分別とはそうでないもの、すなわち、あらゆる経験要素とあらゆる集合的要素とを排して得られるそれであるということです。 それは、将棋や碁における最高の手筋が、定石を超越したところから出てくることに似ています。 つまり、定石そのままでは、相手にお見通しになってしまいます。 しかし、だからといって定石を離れてしまっては勝ちはありません。 定石は、そのまま従うものでもなく、それを無視するものでもなく、超越すべきものであるからです。 このようにして、時として顕れる素晴らしい手筋がいわゆる新譜です。 ところで、この新譜は、いかなる研究の結果としても得られるものでは無いという点が重要なことです。 無分別ということは、それに似ています。 すなわち、無分別智は、いかなる研究やいかなる努力の結果としても出てくるものでは無いのです。 それどころか、無分別ということは人々(衆生)が正常な頭で、あるいは散乱した頭で思考・思惟・分別・推量・類推・考察・省察・経験・反省・後悔・想像・創造・考案・発案・発明・予想・予見・予知・予感する限りのありとあらゆるものに依存せず、複数の人々の間で行われる相談・討論・合議・合意・啓蒙・啓示・啓発などのありとあらゆるものに依存せず、すなわち人々(衆生)が思いつく限りのありとあらゆるものに依存することなく生じるということなのです。 分別には、どこかに「うまくやってやろう」とする気持ちが見え隠れしています。 それが無くなったところに、無分別智はあると知らなければなりません。

[ひらめきではない]
無分別智は、ひらめきによるものではありません。 ひらめきによって何かを得た場合には、本人に”ひらめいた”という意識が伴います。 無分別智には、そのような意識が生じません。 ですから、無分別智はひらめきではありません。 無分別智は、ひらめきではない以上、いわゆる頓知ではありません。 無分別智は、まるで唐突に顕れ出るものですが、付け焼き刃ではないと(知る人は)知るからです。 このように、無分別智は頓知ではありませんが、頓悟を生じるものです。

[気づきではない]
無分別智は、気づくことで得られるものではありません。 かといって、何ものかに気づかされた結果得られるものでもありません。 無分別智は、正しく気をつけることによってもたらされるものですが、気づきでも、気づかされでも無いのです。 強いて言えば、無分別智とは、気づきということとは無関係にすべてが明らかになるということなのです。 無分別智が気づきとは無関係である証拠に、無分別智を顕現した本人さえも自らが為したそのことに気づかないことがほとんどです。(善知識)

[何も考えないことではない]
無分別智とは、何も考えないから得られるというものではありません。 しかしながら、無分別智は、何も考えないで出てきた智であるのは確かです。 それにもかかわらず、あらゆる分別や哲学的見解よりもすぐれているという不可思議な智のことです。 無分別智がどのようにすぐれているのかと言うと、一切後悔しない行為を生むという意味ですぐれているのです。 また、その無分別智以外のものはそれよりも必ず劣るという意味ですぐれているのです。 すなわち、無分別智によって行為するとき、行為している本人も喜ばしく、行為の対象となった相手も喜ばしく、それを目撃した人々(ギャラリー)も喜ばしく、その行為の顛末を聞き及んだ現在の人々、またそれを聞き及んだ未来の人々においても喜ばしい結果を生じるのです。 無分別智とは、そのようなものであり、何も考えないで行うやりっ放しの行為の動機ではありません。

[自由奔放ではない]
無分別智は、自分だけが煩いから脱れ、自分だけが自由奔放に生きていくということを後押しするものではありません。 無分別智は、独りよがりな独断専行の動機とはなり得ないのです。 無分別智は、善き行為のみを生むものであると(知る人は)知るからです。

[これ見よがしな行為を生じない]
無分別智は、これ見よがしな行為を生じることはありません。 それは、愛する人を援助するとき、これ見よがしなことは一切しないことに似ています。

[自然体ではない]
無分別智は、俗に言う自然体から出てくるものでもありません。 自然体という意味が、いろいろと考え抜いた結果や諸々の経験を踏まえ、その最後のところは自然に任せるという深い意味であったとしても、そこから無分別智がでてくることは無いのです。 無分別智は、正しい熱望の結果として顕れ出るものであると(知る人は)知るからです。

[そのままでよかったのではない]
無分別智は、それを知る前と後で実は何も変わらず、そのままの自分でよかったのだということを(見解として)認知することではありません。 なぜなら、無分別智を生じたとき、その前と後では明らかに自分が変わったことをはっきりと知るからです。 しかしながら、それは自分に何かが付け加わったということではありません。 量的にも、質的にも、何も変わっていないことを知るのですが、しかも何かが変わったのだと自ら知るのです。 そして、それは勿論、そのままの自分でよかったのだということを(見解として)認知するに生まれて初めて至ったという意味で自分が変わったということではありません。 無分別智は、それを知ることによって、それを知ったということの内容とは無関係な大いなる変革を自分自身にもたらすものであることを(知る人は)否応なく知るということなのです。

[木石ではない]
無分別智は、自分のこころを木石のように頑なにして、何事にも影響されないようにすることではありません。 無分別智は、この世で一番柔和なこころであると(知る人は)知るからです。 最も柔和にして、しかも揺るぎなき最強のこころ。 それが無分別智であると、(知る人は)知るからです。

[外的要因では無く、内的要因でも無い]
無分別智は、外的要因によって生じたものではありません。 その一方で、無分別智は内的要因によって生じたものでも無いのです。 無分別智は、外的および内的なあらゆる感受を排したところから生じたものであると(知る人は)知るからです。

[意識に拠らず、無意識にも拠らない]
無分別智は、意識に拠って生じるものではありません。 その一方で、無分別智は無意識に拠って生じたものでも無いのです。 無分別智は、意識乃至無意識のさらに奥にある何かに拠っていると(知る人は)知るからです。 すなわち、無分別智(仏智)は、人類が作為した結果生じたものでは無いと(知る人は)知るからです。 それ以外には、考えられないと(知る人は)知るからです。

[必然でなく、偶然でもない]
無分別智は、必然的に生じたものではありません。 その一方で、無分別智は偶然に得られるものでも無いのです。 無分別智は、因縁によって生じたものであると(知る人は)知るからです。

[非合理・合理を超越している]
無分別智は、分別ではないところから生じるからといって非合理なものではありません。 かといって、何らかの精神作用の手続きによって合理的に得られた結論でもないのです。 無分別智は、非合理・合理を超越していると(知る人は)知るからです。 それは、究極の合理(理法)であり、一切後悔することがないという事実によってそうだと知られるのです。

[善・悪を超越している]
無分別智は、相手の悪意が本当は悪意ではないものであると(意識することなく、しかも相手よりもそのことを遙かに深く)知って、自らは善意を超えた善意(真如)を以て相手に応えようとするところから顕れ出るものです。 なお、これを煩悩即菩提とも呼びならわします。

[超越者の啓示ではない]
無分別智は、神の啓示として顕れ出るものではありません。 もちろん、それに類似する他の表現である宇宙生命とか一大心霊とか超意識とか異次元世界の賢人とかからの啓示として顕れるものでもありません。 無分別智を得るということについては、いかなる超越者も仮定する必要はありません。 なぜならば、無分別智の何たるかを真実に知ったとき、覚りの境地に至ることについてはいかなる超越者も必要としないことを如実に知るからです。 それどころか、もし超越者の存在を意識的にせよ、無意識的にせよ心にかかえていたとするならば、その人から無分別智が顕れ出ることは絶対にあり得ないのです。

[信仰ある人からも現出する]
キリスト教徒やイスラム教徒、その他のあらゆる一神教や多神教を信仰する人から無分別智が現出しないというのではありません。 無分別智が現出するかどうかは、一大事の局面においてその人がそれらの信仰から離れているかどうかによって決まるからです。 逆に言えば、無分別智は一大事の局面において人々が持つあらゆる信仰を離れさせ、本当の信を生じせしめるものであると(知る人は、目撃した人は)知るからです。 そして、このようにして顕れ出た信と無分別智によって為される行為は、世間の人の目には単なる勇敢な行為や逆に馬鹿げた行為、みすぼらしい行為やこれ見よがしな行為にしか映らないかも知れませんが、それを知る人にはこの世で為される最も清らかで美しい行為の一つであると知られるのです。

[師は無用]
無分別智は、師(グルと呼ばれる存在を含めて)が近くにいるかどうか、師と仰ぐ人がいるかどうか、師と仰ぐ人の言葉を胸に秘めているかどうか、あるいはまだ見ぬ師に憧れ尊敬する気持ちがあるかどうか、師を探し求めているかどうか、などとは無関係に顕れ出るものです。 つまり、無分別智は、師と呼ばれるいかなる存在とも無関係に現出するものであると(知る人は)知るからです。 要するに、師は無用です。 本当に必要なのは、師では無くあなたにとっての善知識であるからです。

[努力の結果ではない]
無分別智は、世間的な努力やいわゆる修行・鍛錬の結果得られるものではありません。 無分別智は、努力無しに生じたものであると(知る人は、それを目撃した人は)知るからです。

[こだわってはならない]
無分別智は、何かにこだわることによって得られるものではありません。 無分別智は、何ものにもこだわらないところから出てくるものであるからです。 しかしながら、意識的にこだわりを捨て去ることによって、そのことによって直接的に得られるものではありません。 それは、まったくこだわりに他ならないからです。 無分別智は、それにこだわりをもっていて、しかもそのこだわりを捨て去ったところに顕れ出るものであると(知る人は、それを目撃した人は)知るからです。

[醸成された結果ではない]
無分別智は、いろいろな知識や(哲学的)見解、経験、見識などを一旦頭の中に詰め込んで寝かしておき、時とともにそれらが醸成されることによって生じたものではありません。 無分別智は、自分のみならず、過去、現在、未来におけるいかなる人々が作為した結果生じたものではないと(知る人は)知るからです。(三種の明知)

[悩み苦しんだ末ではない]
無分別智は、何にせよ、あれこれと悩み苦しんだ末に現出するものではありません。 無分別智は、確かに最も悩ましい局面において、すなわち一大事の局面において顕れ出るものですが、そのような苦悩自体を最初から最後まで関係する誰もが感受しないで済むためにはどうすればよいかが、まるで予め分かっていたかのように現出する不可思議なるもの(超越したもの)であると(知る人は)知るからです。 しかしながら、それはそのことを予め誰かが想定していたり、”この場合にはこれを用いればよい”というように前もって誰かが用意していた結果顕れ出るものではあり得ないと(知る人は)知るからです。 つまり、無分別智は誰かが作為したものではあり得ないと(知る人は)知るからです。

[思いやりの気持ちからではない]
無分別智は、真実の意味で相手を思いやった結果顕れるものですが、思いやりの気持ちから顕れるものではありません。 なぜなら、無分別智は、思いやったという気持ち無しに顕れるものであり、相手においても思いやってもらったという認識を生じることは無いからです。 無分別智は、あくまでも互いに対等なるこころの下で顕れ出るものであると(知る人は)知るからです。

[楽天的(悲観的)であるがゆえではない]
無分別智は、その人が楽天的な生活を送っているゆえに現出するものではありません。 一方で、無分別智は、その人が悲観的な生活を送っているゆえに現出するものでもないのです。 無分別智は、心無い(自分ならざる)いかなる生活からも現れることはなく、心ある正しい生活を送っている人からのみ現れるものであると(知る人は)知るからです。

[精神集中の結果ではない]
無分別智は、精神集中の結果得られるものではありません。 無分別智は、精神統一の状態において顕現すると(知る人は)知るからです。 現代的に表現すれば、完全なリラックス状態で顕れ、完全なるリラックス状態に安住せしめるものであると(知る人は)知るからです。

[瞑想の結果ではない]
無分別智は、いわゆる瞑想(メディテーション)の結果得られるものではありません。 また、瞑想中に生じるものでもありません。 無分別智は、いわゆる瞑想(メディテーション)とは無関係に生じたものであると(知る人は)知るからです。

[自力でも他力でもない]
無分別智は、自分ひとりで得られるものではありません。 かといって、他力本願で得られるものでも無いのです。 無分別智は、正しい熱望をもって人と関わる中で生じるものであると(知る人は)知るからです。

[知能に依らない]
無分別智は、知能の高低によってその顕れに差を生じるものではありません。 その証拠に、知能を論じる以前の年端もいかない子供から世に現れ出ることがあるからです。

[経験に依らない]
無分別智は、経験の多寡によってその顕れに差を生じるものではありません。 その証拠に、経験の浅い年端もいかない子供から世に現れ出ることもあり、経験豊富な老人から世に現れ出ることもあるからです。

[男女の区別は無い]
無分別智は、男女の区別無く顕れます。

[誓戒]
無分別智は、誓戒を守ることによって顕れ出るものではありません。 無分別智は、誓戒を意識的に守るのではなく、生まれながらにせよ後天的要素を含むにせよ予め誓戒を保っている人からのみ顕れ出るものであると(知る人は)知るからです。

[命]
無分別智は、自然科学的にいう生命および生命活動、また仏教的にいう命(いのち)ということを直接の原因とせずに生じるものであると言えるでしょう。 無分別智は、そのわずかな部分さえそれらに依拠して生じたとは考えられないと(知る人は)知るからです。 無分別智の清浄さという観点から見れば、それらは濁りを生む以外の何ものでもないと理解されるに至るからです。(法華経にいう五濁) つまり、無分別智は、少なくともその瞬間には命にもとづくこと無しに顕れ出るものであるからです。 しかしながらその一方で、無分別智は命ということを通して(命という関わりの中で)顕れ出るものであることは間違いないことです。 ですから、無分別智は、命のありさまを最初から最後まで否定するものでは
ありませんが、それだけにこだわって命を超えたもの(作られざるもの,繰り返されないもの)を求めないならばついに無分別智を知ることはできないでしょう。

[唯一のもの]
無分別智は、その状況を解決することを目指して適用可能なあらゆる方法の中の最高のものであり、ただ一つの完全な方法なのです。 それは、愛の表現としてのプロポーズの言葉に(ちょっと)似ています。 プロポーズの言葉は、それ以外の言葉は考えられないものであるからです。 もしそれで駄目であったとしても、他にはそれ以上の言葉は無いと分かっているからです。 そして、プロポーズにおいては、それが相手に受け入れられずに悲しい結果を生むことがありますが、無分別智においては、常に喜ばしい結果しか生まないという特筆すべき特徴があるのです。

[使い回しできない]
無分別智は、その状況についてのみ有効な一回限りのものであり、他のいかなる局面に対してもそれをそのまま使い回しすることはできないものです。 したがって、無分別智を知識化したり、事例化したりすることはできないのです。

[訂正・変更されない]
無分別智は、それが顕れたとき誰によっても訂正・変更されることはありません。 勿論、無分別智を顕した本人も訂正・変更することはありません。 無分別智は、一切の迷いを予め振り切ったところから、ずばり表明されるものであると(知る人は)知るからです。

[歯切れのよさとは無関係]
無分別智は、歯切れのよい言葉や態度として顕れることもあり、歯切れの悪い言葉や態度として顕れることもあります。 すなわち、無分別智は、歯切れのよさとは無関係です。 しかしながら、無分別智は、歯切れのよさとは無関係であるにもかかわらず、取り違えられることなく相手にはっきりと伝わるものであると(知る人は)知るのです。

[清浄ならしめる]
無分別智は、少なくともそのことについて、自分のみならず相手をも清浄ならしめるものです。 無分別智が顕れたとき、自ら三毒(貪嗔痴)を解毒するとともに、相手をして三毒から解離する(捨てせしめる)働きを為すからです。 聡明なる人は、それを目撃したとき、その清浄さを直ちに理解してこころ打たれることでしょう。

[最悪を最高に]
無分別智は、最悪の事態において顕れ出て、その事態を直ちに最高の事態へと転じるものです。 それは、まさに毒を薬に変じるようなものであり、変毒為薬とも言いならわします。

[二つの壁を破る]
無分別智は、それが顕れたとき人間不信と自己嫌悪という二つの壁を同時に破ります。 また、無分別智は、それが顕れたとき、自らこの二つの壁を破るとともに相手をしてこの二つの壁を破りせしめるのです。 このように、無分別智が顕れたとき、人間不信と自己嫌悪という二つの壁は完全に打ち破られ、垣根は払拭されるに至るのです。

[二つの孤独を破る]
無分別智は、それが顕れたとき孤独の中にあって孤独を破り、孤独から出る働きを為します。 また、無分別智は、それが顕れたとき、自らの孤独を破るとともに相手の孤独をも破りせしめるのです。

[卑下を生じない]
無分別智の何たるかを如実に知ったとき、自分のそれまでの分別がまったく意味を為さないことをはっきりと理解します。 しかし、そのことによって自分を卑下するという感情が生じることはありません。 そのとき、無分別智、すなわち諸仏の智慧に対する尊敬の念を生じますが、そのことによって自分を卑下する気持ちが起きることはないのです。 その様子は、例えば知恵の輪が解けた瞬間に似ています。 それまで、意味のないまったく馬鹿げたことをいろいろと試していたためにその知恵の輪は解けなかったのですが、そのような馬鹿げたことをしていればしているほど、いざ知恵の輪が解けたときの感動は深いのです。 そのことで、卑下を生じることは無いのです。

[慢心を生じない]
無分別智の何たるかを如実に知ったとき、自分を褒めてやりたいというような慢心が生じることはありません。 自分が偉いと思うことも、偉くなったと思うこともありません。 自分を誇ることもありません。 ただ、そのとき、諸仏の智慧(無分別智)の素晴らしさにこころを奪われてしまうのです。

[光や音、声などない]
無分別智の何たるかを如実に知ったとき、光を見たり、光につつまれたり、特殊な音(バイブレーション)を聞いたり包まれたり、何かの声を聞いたり、身体が軽くなったと感じたり、身体が大きくなったように感じたり、世界が違って見えたり、自然と一体化したと感じたり、自然が輝いて見えたり、植物や静物と会話できるようになったり、霊が見えたりするなどのいわゆる超常的な現象を生じたり感じたりすることはありません。 勿論、それ以後もそのようなことはありません。 また、自分がこの世に生まれてきた理由を理解したり、この世において為すべき自分の使命を理解したりすることもありません。 つまり、いかなる超越的体験も神秘体験もありません。 ただ、そのときを境に、自分がこれまで迷妄のただ中にいたことをはっきりと知るのです。

[感謝しない]
無分別智を得たとき、誰かに感謝したり、自然や世界に感謝したり、超越者に感謝したり、あるいは自分自身に感謝したりする気持ちを生じることはありません。 それどころか、無分別智を得るにあたって最も重要な働きを為した善知識に対してさえ、感謝の気持ちを生じることは無いのです。 無分別智は、自らの因縁で生じ、自らに顕現したものであると(知る人は)知るからです。 したがって、例えばあなたがこのサイトを閲覧したことをきっかけとして覚りの境地に至ったと思うことがあったとしても、私(このサイトの起草者)や、このサイトの内容、法(ダルマ)、超越的何か、あるいはあなたにとっての善知識とおぼしき人などのどれか一つにでも感謝の念を生じたとするならば、あなたは覚りの境地には至っていないと考えなければなりません。 感謝の念があるならば、それは思い込みの所産であるのです。 無分別智を目撃したとき、あるいは覚りの境地に至ったとき、いかなるものに対しても感謝の念を生じることはあり得ないのです。

[喜ばない]
無分別智を得たとき、それは後で振り返っても喜ぶべきことであるとは思うのですが、実際には小躍りするような喜びの感情を生じることはありません。 なぜならば、無分別智を得たとき、それと同時に(世俗的な)喜怒哀楽の感受作用が消滅した自分を発見するからです。 無分別智を得たとき、そこにあるものは喜びではなく、特殊な感動のみであるからです。

[軽蔑しない]
無分別智の何たるかを如実に知ったとき、分別智や衆生を軽蔑する気持ちが生じることはありません。 分別智は真実の智ではないことを、はっきりと理解するに至るのですが、人々(衆生)はその分別智を最良・最善の智だとせざるを得ないであろうことも同時に理解するからです。 人々がそのように思い、そのように振る舞うのは、無理もないことであるのだと知るからです。 そして、人々(衆生)が為すそのような振る舞いは軽蔑すべきことではなく、根底においてはむしろ尊敬に値することであると(知る人は)知るからです。

[親しくならず、疎遠にもならず]
無分別智が顕れたとき、関係した人々がよりいっそう親しくなったり、あるいは逆に疎遠になったりすることはありません。 無分別智は、関係した誰にも真の意味では理解されないゆえにそのようになるのであり、もし誰かに真の意味で理解されたとしても、その人(覚者)は関係した誰ともよりいっそう親しくなったり、あるいは逆に疎遠になったりしようとは思わないからです。

[主客未分の状況から現れる]
無分別智は、主客未分の状況から現れ出る智です。 なぜならば、無分別智が世に現れ出たのは一大事ゆえであるからです。 その一大事を演出したのは、相手がいればこそであり、その意味では相手が主で自分が客ですが、その智を自分が知るに至り相手は知るに至らなかったという意味では相手が客で自分が主です。 そのような状況(シチュエーション)を作り出した真の要因は、自分にあるかも知れず、あるいは相手にあるかも知れず、それを単純な主客関係で特定することはできないのです。 だからといって、主客が無いとも言えないのです。 智を生じているという事実がある以上、何らかの主体を想定せざるを得ないからです。 より実際的な意味では、最初から主客未分であると言うべきでしょう。 例えば、対戦型の遊戯や武道、スポーツなどにおいて素晴らしいプレーが現れ出たとき、それを演出したのは相手かも知れず、自分かも知れず、本来的に主客未分です。 しかし、その素晴らしいプレー自体は、主客の所在がどうであれ如実に存在するものです。 無分別智が主客未分の状況から現れ出るというのは、それに似ています。

[決心が必要]
無分別智は、只今からかのように生きていこうとする決心と共に顕れ出る智です。 しかしながら、その決心は身を捨てるような壮絶なものであってはならず、逆に表面的な浅薄なものであってもならないのです。 無分別智は、かの無分別智のように生きていこうとする正しい決心と共に顕れ出る智であると(知る人は)知るからです。

[どうしてもいけなければのところから]
上に多く列記したように、無分別智は××のところからは得られません。 ××によっては生じません。 と書くと、皆さんは無分別智を得る方法がまったく分からなくなってしまうことでしょう。 まったく、どうしようもなくなってしまうことでしょう。 しかしながら、無分別智は、そのようなどうしようもないところからこそ顕れるものであるのです。 ただし、どうしようもないと混迷したところから顕れることはありません。 どうしようもない状況にありながら、しかもなお混迷しない人々にのみ顕現するのだと(知る人は)知っているからです。 世界中のあらゆる人々が混迷するであろうその状況において、その人だけが唯一混迷しないゆえに、無分別智はまさにその人に顕現するのだと(知る人は)知っているからです。

[熱望すべきもの]
熱意をもってしては得られないもの。 それが無分別智です。 無分別智は、生まれながらにせよ後天的要素を含むにせよ、正しく熱望する人にのみ顕現するものであると(知る人は)知るからです。


[補足説明]
無分別智が現れ出る様を指して、金剛般若経では、

● まさに住するところなくして、しかも其の心を生ずべし (応無所住而生其心)

と述べています。