【微妙なこと】

人の覚りの道筋は、微妙である。 人々(衆生)が行なう通常の思惟・考研・分別・念慮・努力の範囲を超えているからである。 では、微妙とはつまるところどういうことなのであろうか? それについて、私の知るところを記そう。

まず第一に微妙なことは、人の覚りが知能や知識や経験などの優劣・有無とは無関係に起こるということである。 それゆえに、仏教的な知識や見識の多い少ないなどは覚りの周到さを援護するものとも阻害するものともならない。 要するに、誰でも覚り得るということである。

ここでまず素朴な疑問を生じるであろう。 誰でも覚り得るのであるならば、どうして実際に覚りに至る人は極少ないのであろうか? その理由は、次のようなことであろうと考えられる。

 『覚りをこころから目指す人が少ないのである』 また、『自分自身を信じることができずに覚れないでいる』

つまり、覚りを目指さないから覚りが達成できないのであると言う単純な図式が浮かぶ。 すなわち、人が覚りを難しいことであると予め考え、諦めて、そもそも覚りを目指そうとはしない傾向にあること。 これが第二に微妙なことである。

さらに微妙なことがある。 それは、人は自力では覚ることができず、かつ自力で覚らなければならないということである。 この一見して矛盾したところに覚 りの道の本質的な微妙さがある。 自力で覚らなければならないというのは、自らの意志によって覚りを求めなければ善知識に出会うことが無いと言う意味であ る。 そして、善知識に出会わなければ人が覚ることはあり得ない。 ところで、善知識が発する法の句を聞いて、それによって覚る(=解脱する)ということ は自力で起こることではなく、因縁によって起こることである。 これは、言ってみれば人は自力では覚ることは出来ないと言うことを意味している。 つま り、人は人為的な何によっても覚ることができず、ただ因縁によってのみ覚りに至るということである。 すなわち、人は自力では覚ることができず、かつ自力 で覚らなければならないということになる。 これが第三の微妙なことである。

次に微妙なことは、人は覚ろうとしても覚ることができず、真実を知ろうとすることによってかえって覚りに至るということである。 これが第四に微妙なことである。

また次に微妙なことは、人が善知識(=法の句)によって覚るかどうかは、それを知ったときに〈特殊な感動〉を 生じるかどうかにかかっているということである。 つまり、たとえ善知識を耳にしてその真実を理解したとしても、もしも〈特殊な感動〉を生じなければそれ では覚りには至らず一来(次の生で覚りに至る人,次の生はおそらく遠い未来となること)となってしまう。 それがどちらになるかは、本人次第ということで ある。 つまり、今生で覚るか来世で覚るかの分かれ目があるということである。 これが第五に微妙なことである。

その次に微妙なことは、正法を知らなければおそらく覚れないということである。 すなわち、人をして覚りに至らしめる真実の法(ダルマ)の存在と、その世 における現れ方を予め知っていなければ人は善知識を耳にしても覚ることができない。 最低限の知識無しには、覚りを生じないということ。 これが第六に微 妙なことである。 そして、このことは異教の徒が覚ることは難しいということをも示唆している。

また別の微妙なことがある。 それは、人は生き身の如来を見て覚るのでは無く、衆生の口を借りて世に出現するその稀有なる言葉(=善知識,=法の句)に よって覚るということである。 それゆえに、如来が世に存在していることそれ自体は、人々の覚りとは無関係であると言える。 それどころか、生き身の如来 の所作・振る舞い・言動に魅力を感じ、自らの道を浄めようとしないならば、それでは如来は覚りの逆縁となりかねない。 したがって、人々は安易に如来を師 と仰いではならない。 これが第七に微妙なことである。

第八に微妙なことは、人は誤って人智に陥ることがあるということである。 人智は人々を魅了するものであるゆえに、そこに陥った人がさらに仏智を知ろうと 願うことは困難となってしまう。 人智は、覚りの道の袋小路であると知らねばならない。 しかしながら、皮肉なことにこの人智に陥り易いという人の性向そ のものが彼が覚りを目指す機縁そのものともなるゆえに、微妙であると言わなければならない。 つまり、人智の理解無しには仏智には巡り会わないかも知れな いということである。

第九に微妙なことは、覚りの道は一なる道でありながら、その道を固定的に指し示すことができないということである。 けだし、覚りの道はそれぞれの人がそ れぞれに、自ら見い出す道でなければならないからである。 このため、如来も敢えて修行法を示さない。 しかし、このことは人々が覚りの道を見失ってしま う要因ともなっていることである。 つまり、もろもろの如来が修行法を示さないので、人々は疑惑を生じて覚りの実在そのものと自らの覚りの達成を信じなく なってしまうことがあるということである。 しかしそれでも、こころある人は道を見い出すのである。 これは、聖求に関わる微妙なことである。

第十に微妙なことは、近づくことよりも離れることが、得ることよりも捨て去ることがすぐれているということである。 けだし、人は情欲を離れることによって覚りの道を堅固ならしめ、名称と形態(nama-rupa)とを捨て去って解脱するのであるからである。

最後に微妙なこと。 しかし最も微妙なことがある。 それは、人は数多の困難があるにもかかわらずそれでも覚りを目指す確かな流れの中にあるということで ある。 その本当の由来は不明であるが、人類の誕生とともにその流れが成立していたとしか考えられない。 しかし、それゆえにこそもろもろの如来は人々に 理法を説き、人々の覚りをいざなうのである。 また、この不可思議なる流れの存在が如来を如来たらしめている(つまり人々が如来を見てそれが如来であると 心底で知っている理由となっている)要因であるということである。

この世には種々さまざまな微妙なことがある。 しかし、上で述べたことがらこそ真に微妙なことなのである。 聡明な人はその微妙さをこころに知って、他ならぬ自分が仏になれるのであるということを領解せよ。