【仏道は厳しい道程なのか?】

ある掲示板で、仏道について次のような感想を述べた人があった。

 『ゴールが見えていたり、どこにあるかわかっていれば、何とか頑張る事ができましょうが、見えないしそこに何があるかもハッキリわからないところに邁進する事は、モチベーションを保つだけでも本当に本当に難しい事だと思います。  厳しい道のりですね、仏道は、、、、。』

確かに歴史を見るに覚りに至った人は稀である。 それが厳しい道程のせいであると見なすならば、首記の意見も尤もなことだと言えるであろう。 しかし、仏道を歩むということは次のようなものなのであり、本来厳しい道程であると言うわけではない。

たとえば、知恵の輪に取り組む人にとって最後の瞬間のことが分かっているわけではない。 ただ解けるということだけが予め分かっていることのすべてである。 すでにその知恵の輪を解いた人も、敢えてヒントを与えてはくれない。 このため、知恵の輪がどうしても解けない人の中には業を煮やして「解けないということがこの知恵の輪の答えである」と誤って主張する者も現れる。 あるいはまた、「ヒントを与えてくれないから解けないのだ」と解けない理由を他人になすりつける者も現れるであろう。

仏道の究極地たる解脱も、その瞬間がどのように起きるのかは修行者には分からないことである。 ただ人は解脱することができるということだけが(如来がそのように説くので)分かっていることのすべてである。 そして、如来は人の解脱についての具体的な方法論については敢えて何も語らない。 このため、なかなか解脱できない人の中には疑惑をいだき「人はそもそも解脱できはしない」とか「解脱できる素質がある人とそうでない人とがいる」などと錯乱して主張する者も現れる。 あるいはまた、「如来が方法論を説かないから解脱できないのだ」と覚れない理由を如来になすりつける者も現れる。

しかしながら、事実は決して悲観すべきことではない。 知恵の輪は、すでにそれを解いた人にとってはいとも簡単に解けるものに他ならないからである。 解くのに力さえいらない。 解き方を忘れてしまうことも無い。 そしてこのように正しく知恵の輪を解いたとき、すでに解いた人が未だ解けない人に何故敢えてヒントを与えてはくれなかったのかということの理由をも知ることになる。

解脱も、すでにそれを果たした覚者にとってそれは決して難しいものでもなければ、厳しいものでもないと認知される。 そして、一度解脱したならば以後は何の継続的な修行をも要せずこの安らけく覚りの境地に住することが出来るのである。 このとき、かつてもろもろの如来が何故敢えて方法論を語らなかったのかについてもその理由を知ることになる。

このように、すでにそれを果たした覚者(=仏)にとって人々(衆生)が仏道を歩むということそれ自体は本来厳しい道程であると言うものではないと認知される。 なぜならば、未だ解脱していない人々も自分とまったく同じ仏になれることを知っているからである。 そこには特別な素質など何一つ認められない。 つまり、誰でも解脱することができる筈である。

しかし、それならばどうして人々は容易に解脱しないのであろうか? この疑問には、次のように答えなければならない。

 『この一なる道が微妙であるからである。』

そして、何よりも先ず、

 『人々は、自分自身を信じることができずにいるために解脱しないのである。』

聡明な人は、仏の言葉を信じ、それにもまして自分自身を信じるべきである。 もろもろの如来は、決して難しい・厳しいことを為せと言っているのではないからある。