【切実な問いに対する答え】

人をして円かなやすらぎ(=ニルヴァーナ)に導き至らしめるこの一なる道の歩みにおいて、いわゆる修行法と呼ぶべきもの(手続き的なもの)は何一つ存在していない。 けだし、人の覚りの道はそれぞれの人の明知によってそれぞれに見い出され、それぞれの人が自ら為す精励によってその歩みが確からしめられるものであるからである。

しかしながら、それでも人々が「どうすれば正しい道を見い出して確固たる歩みを営めるのであるか?」と切実に問うならば、それには次のように答えなければならない。

 『真実を知ろうと熱望することが、その最初であり、また終わりである』

このまるで呆けたような答えがこの切実な問いに対する完全な答えである。

人は、熱望するゆえに世を正しく遍歴することを得る。 人は、熱望するゆえに善知識と出会う。 人は、熱望するゆえについに法(ダルマ)を体得する。 正しい熱望は、終焉のあるものであって果てしのないものとはならない。 正しい熱望は、その始めにおいて大いなる決意を起こし、その終わりにおいて崇高なる決心を生ぜしめるものである。

正しい熱望を起こした人は、必ず解脱するであろう。 なんとなれば、熱望する人の身にそれがまさしく起きてこそ法は法(ダルマ)として世に証されるのであるからである。