【ただ自らに依拠して】

有形のものであれ、無形のものであれ、何かに頼って願いを叶えようとする者は、ことある毎に楽になったと感じ、また(理想と見なしたものに)近づいたと感じ、道の歩みを助けられたと感じる。 かれ(彼女)は、時に感じて自分の気持ちを吐露するが、それは単なる気休めに過ぎず、苦の根本を断ち切るものとはならない。 かれ(彼女)には、楽と苦がくり返し訪れ、それらに従いかれ(彼女)の気持ちも振り子のように揺れ動く。

有形のものであれ、無形のものであれ、いかなるものにも頼ることなく、ただ真実を知ろうと熱望して、以て願いを超えた願い叶えようとする人が、ことある毎に人の世の苦を知り、また究極に近づく確かな道を見いだし、正しい道の歩みを堅固ならしめて、ついに円かなやすらぎ(=ニルヴァーナ)へと到達する。 かれ(彼女)は、ことに臨んで自分の過ち(=本質的な勘違い)を知り、懺悔して清らかとなり、ついに苦の根本を断ち切るに至る。 そこに至ったとき、かれ(彼女)は、やすらぎに住している自分自身を発見して解脱の真実をさとり、それらに従いかれ(彼女)は動じないこころを得たことを知るのである。

偏見を超えることは容易ではない。 しかしながら、偏見を超えた人が道を見いだしてやすらぎへと近づく。 自らの無知を知ることは難しい。 しかしながら、自分が無知であることを知って明知の輝きを増し、学識ゆたかな人々に親しむ人が、ついに無学の人(=この世でそれ以上何も学ぶ必要の無い人)となる。

師に頼り、経典に頼り、修行に頼って、上手に道を歩もうとするならば、それでは偏見を超えることはとてもできない。 心構え正しく、自らに依拠して道を見いだし、歩み行く人が、師に頼ることなく、経典に頼らず、「気をつけること」を修行と為して、超え難き偏見を超えるのである。

こころある人は、世の一切の段階の説に心を寄せることなく、頓悟(=目の当たり即時に現れる法のはたらき)によってこの円かなやすらぎ(=ニルヴァーナ)へと至れかし。


[補足説明]

関連する理法 →  理法【041】 自らにのみ依拠して