【自らにのみ依拠して】

一切世間においていかなる喧騒と安楽のすがたを眼のあたりにしようとも、また種々さまざまに世間に飛び交う欠点のある、あるいは欠点の無い言説を耳にしようとも、覚りの境地を目指す人はすべからく、自分ならざる何ものにも依拠することなく、ただ自らにのみ依拠して、自ら見いだした正しい道を歩まなければならない。

しかしながら、それは決して容易なことではない。 なぜならば、人々(衆生)は名称と形態(nama-rupa)を心に有し、それが自分のこころそのものであると(否応なくも)誤解し、その作用(=感受作用・表象作用・識別作用)につねに翻弄されている存在であるからである。 人々は、ものを欲しがり、ものに執著を起こして、それゆえに自らにのみ依拠して(正しく)行為することが根源的に困難になっているのである。

ところで、人が覚りの境地に至るということは、かれが根本的無知(=<無明>と名づく)ゆえに誤って後生大事に抱え込んでいるこの名称と形態(nama-rupa)と名づく心それ自身が、自ら抱く名称と形態(nama-rupa)への執著を離れて、自ら抱く名称と形態(nama-rupa)であるところの心それ自身を滅尽することに他ならない。 つまり、覚りの真実とは「それ自身」によって「それ自身」を滅する道なのである。 したがって、仏道とは次のようなものであると言えるのである。

● 自らにのみ依拠し、自ら(正しく)気をつけて行い、自ら見いだし、自ら知って、自ら決心し、自ら至るのが、仏道に他ならない。

ところで、ここで留意すべきことがある。

 『人は、自分以外の何ものにも依拠することなくただ自らにのみ依拠して行為すべきである。 しかし、それは自分勝手なものであってはならない。 またそれは、自分の心を(予め)滅して得た何かであってもいけない。 なんとなれば、(理法に適う)正しい拠り所は、それらの両極端とは別のところにあると知られるからである。』

仏道は、決して遠いところにあるのではない。 それは各自の極近くにあって、しかしそれゆえに知り難く、それゆえに得難く、またそれゆえに歩み難い道である。 明知の人は、ことわりをこころに知って、自らにのみ依拠することの真実を自らによって識り分けて、すみやかに覚りの境地へと到達せよ。