【道の真実】

いとも聡明なる人は、自ら見いだした正しい道を進み行き、ついにまごうことなき覚りの境地に至って住し、歩み来たその道の終着点に達したことを知ることになる。 そこに至ったとき、覚者は実に跡なき道を歩み来て、足跡なくして人生の究極に達したことを知ることになるのである。

この覚りに至る一なる道は、それぞれの人の因縁によって(気づきではない気づきとして)こころに見いだされるものであり、実際にそれが見いだされるときには、つねにそのように見いだされる。 それぞれの人にとって、それを見いだすことは容易なことでは無いであろうが、道を見いだすというそのことそれ自体は、決して特殊なことでも特別なことでもないものである。 なんとなれば、それをすでに知り究め、その道の終着点に至った修行完成者にとって、それは人として当然の、ひととして為すべきあり得べき行為の帰趨に他ならないと認知されるものであるからである。 それは、それがあるときにはそれが必ずそのように起き、それが起きたときにはそれが必ずそのように帰結するのであると知られるものである。 覚者が、それをそのように断言できる根拠は、すべての人の心の深奥にひとしく存在する「それ(=真如)」に求められる。

それゆえに、未だ覚りの境地に至っていない人が、すでに覚りの境地に至った覚者をもしも仰ぎ見るときには、決して仰ぎ見てはならない。 なんとなれば、それ(=真如)は一なるものであるからである。 また、たとえその道がいかに崇高なものに見えようとも、覚者がかつて歩んだその道を尋常ならざる道であると称すべきではない。 それは、見い出すことが稀有なる道であるには違いないが、決して尋常ならざる道ではないからである。 けだし、人はそれをこころから望むならば、皆ひとしくこの一なる道を歩み得て、ついには円かなやすらぎ(=ニルヴァーナ)に至るのである。

ところで、世間においてさえ、よい道とは「広くて平坦な道」のことであるといわれる。 そして、人が覚りの境地に至るこの一なる道も、それ以上に「果てしなく広大で平らかな道」である。 その道は、覚りを目指す人々の慈悲に満ちた広いこころと、平等心の極みたる平らかなる想いによって導かれ、見いだされるものであるからである。 ただその道が、余りにも「果てしなく広大で平らかな道」であるゆえに、心構え正しからざる人は進むべき方角を見失い、自ら抱く疑惑によって短く長く迷いつづけることになるのである。 かれは、進んでは退き、あるいは横切って、広大なる道を逸れてよろめき、ときに道を踏み外してしまう。

道に迷いたくない者は、こころに羅針盤を持つべきである。 その羅針盤は、真実を知ろうと精励することによって手に入れることができるであろう。

人が心構え正しく、この果てしなく広大で平らかな道を進み行くならば、かれは利他に生き、それゆえに自利を得ることになる。 人が心構え正しく、この果てしなく広大で平らかな道を進み行くならば、かれはつねに公平・平等にものごとを処すことを得、それゆえにいかなる人からも辱めらることはないであろう。 かれには、福徳と功徳とがつねにつれそい、目の前には真っ直ぐで危険のない大道が開けていて、その真理へ向かう経めぐり歩きは決して逸れることがない。

明知の人は、見る目さえあれば見いだされ得るこの一なる道をまさに見いだし、まっすぐに歩み行くのである。