【言説の根拠とその正否】

(一切世間と名づく)この世において語られるところの、誰にとっても明らかで、確かな、時と場所を超えて普遍性を持つ、揺るぎなき根拠のある言説は、実は唯の一つも存在してはいない。

しかしながら、こころある人が、他の人のことを(自らのこころに問うて嘘いつわりなく)思いやって述べるところの言説については、その言説に根拠があろうと、なかろうと、それは必ずすべての人を満足させる善き結果を生じるのであると言ってよいのである。

その一方で、人が、いかに口先で綺麗事を語ろうとも、かれ自身、自らの心に巣くう情欲や、怒りや、疑惑を払拭していないのであるならば、かれが他の人に向かって語るその言説は、それにいかなる尤もらしい根拠があろうとも、なかろうとも、それがかれ自身のあるいはそうそうたる先人・先達によって多く少く為され識り極められた種々さまざまなる経験およびそれについての思惟・考研の究極たる思想にもとづきあるいはその思想に準拠したものであるとしても、そうでないとしても、その言説にいかに精密・精緻な理論が創立・適用・付帯・付加・援用されていようとも、そうでなかろうとも、その言説の直接の着想あるいはそれにまつわる発端の着想がいかに秀逸ですぐれあるいは超越的・啓示的なものであろうとも、そうでなかろうとも、またたとえその言説が(一時的に)世人をいかに歓喜せしめるとしても、あるいはかれ自身その言説を語ったというその事実に自ら大いに満足し深く酔いしれているとしても、はたまたそうでなかろうとも、それは結局はかれ自身のしあわせ(=幸運)を滅ぼす悪しき結果を生じてしまう。

けだし、人が他の人に向かって述べる言説の正否は、その言説を述べるにあたっての根拠の有無、経験の多寡、理論の精粗、着想の優劣あるいは超越性・啓示性などによって決まるのではなく、その言説を述べる人の心の根底にある「それ(=真如)」の虚実によって決まるのであるからである。 そして、このことわりの真実は、未だ覚りの境地に至っていない人であっても、もしもかれがよく気をつけているならば、世間においてそれぞれの人がそれぞれさまざまに語る種々の言説の具体的論議の終局それ自体と、それを語った人自身の行為の顛末を見ることによって、それがそうなのだとこころに知ることができるであろう。

それゆえに、ことに臨んで、人が他の人に向かって敢えて言説を語る決心をし、しかもその言説を述べるというその発起によって誰ひとりとして後悔の思いが生じることの無い(いわゆる大団円の)結末を見たいと欲するのであるならば、その人は、外的なあるいは内的な感受にもとづいて起こる一切のよろこびと争いの心とをおさめつくして、正邪・善悪へのこだわりを捨て去り、有無・多寡・精粗・優劣を気にかけることなく、超越性や啓示に畏怖あるいは歓喜の情動を起こすことなく、また感謝や喜捨の念を生じることなく、平静なこころをたもち、おもいを落ち着けて、あわてることなく、けしかけずけしかけられず、駆り立てられず、しかし時期を逸することなく、よく気をつけてことの真偽と虚実(=<真実のすがた>)を見極め、自らの本心に照らして恥じることのない言説をきっぱりと、自らの言葉を以て断乎として語るべきである。

そしてそのような正しい言説を語る人は、それが何についてどのように語ったことであろうと、自分が言説によって(=言説を機縁として)正しい道を歩み、ついには覚りの境地に至ったことをその境地に達してのち振り返り見て、その言説(ひいてはそのもとのもの)にまつわって為したあらゆる行為と他のさまざまなる言動が、すべて足跡を留めないさまを見知ることになるのである。 なんとなれば、『根拠無きによってのみ、足跡無き果報が得られるのである』からである。

それゆえに、明知の人は、その根拠にこだわることなく、帰趨正しき言説を語る人であれ。