【すがたと無明の消滅】

人は、他の人のすがたを正しく見るに及んで、無明を消滅せしめるに至る。 かれは、そのとき覚りの境地に至ったことを自ら知るのである。 このことについて、釈尊の原始経典(ウダーナヴァルガ 第二七章 観察)では、次のように記している。


○ 見る人は、(他の)見る人々を見、また(他の)見ない人々をも見る。 (しかし)見ない人は、(他の)見る人々をも、また見ない人々をも見ない。

○ すがたを見ることは、すがたをさらに吟味して見ることとは異なっている。 ここに両者の異なっていることが説かれる。 昼が夜と異なっているようなものである。 両者が合することは有り得ない。

○ もしもすがたをさらに吟味して見るのであるならば、単にすがたを見るということは無い。 またもしも単にすがたを見るのであるならば、すがたをさらに吟味して見るということは無い{のであるからである}。 ここの人{〈見る人〉}は、単にすがたを見るだけであって、すがたをさらに吟味して見るということが無い。 しかしすがたをさらに吟味して見る人は、つねにすがたを見ることが無い{のである}。

□ 単にすがたを見る人は、どうしてすがたをさらに吟味して見ることが無いのであろうか? すがたを見ない人がつねにすがたをさらに吟味して見てしまうのは、どうしてであろうか? 何があるときに、すがたをさらに吟味して見ることがあるのであろうか? 何が無いときに、すがたをさらに吟味して見ることが無いのであろうか?

□ ここなる人が苦しみを見ないというのは、(その)見ない人が(個人存在の諸要素の集合としての)アートマンであると見ることなのである。 しかし(すべてが)苦しみであると明らかに見るときに、ここなる人{〈見る人〉}は「{その人ならざるところの}(何ものかが)アートマンである」ということを、つねにさらに吟味して見るのである。

○ (無明に)覆われて凡夫は、諸のつくり出されたものを苦しみであるとは見ないのであるが、{しかしながら全く不可思議なことではあるが}その(無明が)あるが故に、すがたをさらに{正しく}吟味して見るということが起こるのである。 {そして究極において}この(無明が)消失したときには、すがたをさらに吟味して見るということも{無明とともに}消滅するのである。

注記) {}内はこのサイトの起草者が追記。 また、□の内容は同者が内容を一部改訂した。


[補足説明]
釈尊のこの経典の記述は、人が無明によって他の人のすがたをどのように捉えているか(捉えざるを得ないか)について、また無明があるが故に他の人のすがたを正しく見ようとする根本的動機を生じ、その結果、最終的に無明を消滅せしめて、ついに他の人の真実のすがたを正しく見るに至るその不可思議を、余すところなく語っている。 無明の存在は、つねにこのようにして知られることになる。 そして、人は、実はこの無明ゆえに覚りの境地に至る因縁を生じているのだと言えるのである。