【段階の説】

この世には、人が覚りの境地に至ることについての種々さまざまな段階の説が飛び交っている。 しかしながら実際には、人の覚りはいかなる段階の説にも従わ ないものである。 なんとなれば、覚りは漸悟ではなく頓悟であるからである。 そこには、いかなる準備段階も途中の段階も存在してはいない。 つまり誰を つかまえても、かれは覚りの境地に至る準備が出来ているとか出来ていないとか言うことはできない。 ただ、この世にはすでに覚った人と未だ覚りの境地に 至っていない人がいるだけである。 世に聖者の4つの階梯が認められるのは、それぞれの人の功徳・機縁の違いを見て言うだけのものであり、これらそれぞれの階梯は人の覚りについての段階の説を何ら擁護しない。

それゆえに、覚りの境地に至ることを目指す人は、「覚りの境地に至る修行についての段階の説」と並び称せられる一種魅惑的な説を種々さまざまに聞き及んで も、それらに近づいてはならない。 一切の段階の説を捨て去って、段階の説にまつわる根本のこだわりを離れ、心構え正しく、よく気をつけて世間を遍歴すべ きである。 そもそも、安らぎを求める人は段階の説に限らず真偽、正邪、多寡、優劣、深浅、虚実などの心に分別を生じる諸説に決して心を奪われてはならな い。 迷妄の渦中にあって、決して迷妄に陥ってはならない。 妄執のただ中にあって、妄執を超えよ。 疑惑を去って、修行途中の実りに関するあらゆる偏見 を捨て去らなければならない。

安らぎを求める人は、自分を他の人とひき比べて、すぐれているとも、劣っているとも、まして等しいとも考えてはならない。 世において目に付く豊かな実りと福楽の果報とに眼を覆われることがないようにせよ。 非難と尊敬とを共に捨て去り、禍福の因を作ってはならない。

段階の説の虚実は、覚りの境地に至ったとき如実に知ることになる。 明知の人は、一切の偏見を離れて、諸説に転ぜられることなく平らかに道を歩むであろう。 覚りは、そのような人に段階的にではなく瞬時にもたらされるものなのである。