【聖者の4つの階梯】

聖者の4つの階梯とは、預流,一来,不還,阿羅漢であり、それぞれの階梯の完成途中にいる人を「向」、完成した人を「果」と呼びます。(預流向、預流果、一来向...) これらの人々は、すでに覚りの境地に至っているか、あるいは覚りの境地に至ることが約束されているという意味で、すべて聖者の範疇に入れるのです。

預流: 覚りの境地に向かう正しい信仰を起こした人、およびその信仰を確立して法(ダルマ)を求める熱望を生じ、正しき精励を実践するに至った人を預流と呼びます。 預流果の階梯に至った人は、すでに覚りの境地に至る聖なる道を歩んでいて、今世においても、来世においてもその道を踏み外すことはありません。 この流れに沿っていけばいつかは必ず覚りの境地に至る、という意味で預流と呼びます。

一来: 仏縁があり、ブッダへの正しい帰依を起こして法(ダルマ)を求める正しい熱望によって諸仏の智慧を正しく理解した人ですが、この世において修復不可能な転生の素因を図らずも残している人。 あるいは自らがブッダになろうとする正しい発心を起こし、覚りの境地に至る道を無分別智ではなく分別智として正しく理解した人。 彼らが一来と呼ばれます。 一来果の階梯に至った人は、来世において必ず覚りの境地に至るということが約束されています(授記)。 現世に一度だけ戻ってくるので、一来と名づけます。

不還: 覚りの境地に至る正しい道を歩き、意識することなく自らのカルマ(業)を減じつつある人、および自らのカルマを滅尽するに至った人を不還と呼びます。 不還果の階梯に至った人は、今世を最後として生まれ変わることが無くなります。(最後身) 不還果は、人生の最期において輪廻の素因が無くなっているためにもうこの世には戻ってはこないのです。 ところで、不還果とは、名称と形態(nama-rupa)のうちの名称(nama)を滅尽した人と言い換えることもできます。

阿羅漢: 覚りの境地に至る正しい道を歩き、正法を正しく理解し、自らのカルマ(業:汚れ)と人類のカルマ(煩悩の根:客塵)を破壊しつつある人、およびそれらを破壊し尽くして識別作用が停止するに至った人を阿羅漢と呼びます。 阿羅漢果の階梯に至った人は、不還果同様に今世を最後として生まれ変わることが無くなりますが、それだけでなくいつでも望む時に人生を終わることができます。 なぜなら、この人は阿羅漢果に達した以後の人生において、いかなるカルマ(業と煩悩の根)も増えることは無いからです。 すなわち、阿羅漢果に至った人は、輪廻の直接の素因およびその潜在的素因を滅し尽くした人であるからです。 ところで、阿羅漢果とは、名称と形態(nama-rupa)の両方を滅尽した人と言い換えることもできます。 なお、師無くして自ら阿羅漢果に至った人を、特にブッダと呼びならわします。