【発心している人】

すでに発心している人には、次のような特徴を見い出すことが出来る。

○ 仏教の探求について、かつては人や経典などの何かに頼っていたが、現在では決して独りよがりや傲慢という意味ではなく、それは誰に頼ることなく自分自身で為さねばならないのだという、(説明できないが)そのことについての確固たる予感と信念があり、そのことについて自らの心に嘘いつわりの無い決意を感じている

○ 人が覚りの境地に至るということは、決して遠い世界だけのことではなく身近かにも起こり得ることであり、そしてそれは誰しもに等しく起こり得ることであろうという漠然とした、しかし(説明できないが)そのことについての確固たる予感がある

○ 人が覚りの境地に至ったとき、その人にとってそれはまるで当たり前のように起こったと感じるに違いないという漠然とした、しかし(説明できないが)そのことについての確固たる予感がある

○ 仏教の探求や悟りについて、少なくとも自分は既に何某かのことついては完全に理解していると自分自身の気持ちとして確固たる自信を持っているが、それにもかかわらずその理解はどこか不完全であり、何かを根本的に勘違いしているかも知れないと言う、漠然とした、しかし(説明できないが)そのことについての確かな予感があり、同時にそのことを自分では決して認めたくないという一種名状し難い相反する思いをも感じている

○ 口では何と言おうとも、あるいは如何なる態度を示そうとも、すべての人には覚りの境地に至るということについての、おそらくその人自身も気づいていない根本的な興味とそれに向かう確かな傾向があり、それに反する人は誰一人としていないであろうという、(説明できないが)そのことについての妄想ならざる確信がある

○ 生まれてこのかた学び会得してきたところの、役に立つ、あるいは役に立たないあらゆる分別を超えたところに、もしかしたら自分が心から探し求めている本当の答えがあるかも知れないという、(説明できないが)そのことについての確固たる予感がある

○ この世には、(覚りの境地に至った人を除いて)真実の意味で楽しんでいる人などは誰一人としておらず、(自分を含めて)皆何らかの苦や悩みをかかえていて、しかも皆自力ではそれをどうすることもできないでいるに違いないという、(説明できないが)そのことについての妄想ならざる確信がある

○ まだ目のあたりに出会ったことはないが、この世には真実に覚りの境地に至った人が現在において実在し、あるいは少なくとも過去にはそのような人が実在したに違いないという、(説明できないが)そのことについての妄想ならざる確信がある

○ にわかには信じ難いが、この世には怒ったり争ったりする気持ちがまったく無い人が現在において実在し、あるいは少なくとも過去にはそのような人が実在したに違いないという、(説明できないが)そのことについての妄想ならざる確信がある


[補足説明]
例えば、法華経-方便品第二では、生まれながらにしてすでに発心している人、あるいはこの世において発心し、今生において間違いなく覚りの境地に至るであろう人の特徴を次のように記しています。

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