【素質】

 人は、それをこころから望むならば、誰でも覚りの境地(=ニルヴァーナ)に至り得る。したがって、覚りの素質などというものは何ら存在していない。しか しながら、実際には、世において覚りの境地にすみやかに至る人とそうでない人がいるのは厳然たる事実である。この事実を鑑みて、すみやかに覚りの境地に 至った人には何らかの素質があったのだと後づけで認められ、(死ぬよりも前に)ついに覚りの境地に至らなかった人には素質が無かったのだと認めざるを得な いであろうと言うのであるならば、その時に限り、その意味においてのみ<覚りの素質>ということを論じることができるのである。

 <覚りの素質>とは、一言で言えば素直な人であるかどうかということである。なんとなれば、素直な人だけが、ことに臨んでその素直さゆえに善なる行為を 為し遂げるのであると言えるからである。かれのその行為は、自分ならざる如何なるものにも依拠することなく為されたものであり、それは(強いて言えば)か れ自身のこころの奥深くから突き上げてくる「それ(=真如)」によって発動したものである。それは、およそ人(=衆生)なれば誰しもが執著するところのあ らゆる心理的障礙を超えて為される行為である。それは、人を超えた真実の行為に他ならない。それゆえに、それを為し遂げた本人でさえ、行為の本当の理由 (行為の動機たる潜在的素因とも言うべき「それ(=真如)」)の真実を説明することは出来ないのである。それどころか、かれは、自分が為し遂げた行為の本 当の意味に気づくことさえない。「それ(=真如)」の発動は、不可思議なる因縁によるものであるからである。

 <覚りの素質>に関する具体的記述は、例えば法華経-方便品第二の中に見ることができる。そこでは、生まれながらにしてすでに発心している人、あるいは この世において発心し、今生において間違いなく覚りの境地に至るであろう<素質ゆたかな人>の特徴を次のように記している。


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*** 引用(法華経-方便品第二の和訳経典から)
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{前を略}

 ── 生ける者達の中で、諸々の過去の仏に出会って、教えを聞いて布施し、戒を守ることや、忍耐や、精進や禅定や智慧などによって種々に福徳を修めた、 かかる諸々の人々は皆、仏道を完成するであろう。諸仏がこの世を去っていても、もし人に善軟の心があれば、この様な諸々の生ける者達は皆、仏道を完成する であろう。諸仏がこの世を去っていても、その遺骨を供養する者があって、万億種の塔を建てて、金・銀・頗梨と、しゃこと瑠璃と、攻魂(朱色の珠)と流璃珠 とをもって、諸々の塔を清浄に広く美しく飾り立て、或いは石造の廟を建て、栴檀と沈香、木椅その他の香木や瓦や泥土で塔を建てるとしよう。 もしくは、広野の中で、土を積んで仏の廟を建立し、或いは童子がたわむれに砂を集めて仏の塔をつくるとしよう。これらの諸々の人らは皆、仏道を完成するこ とであろう。 もし人、仏の為に諸々の像を建立し、彫刻して三十二相を備えた像を完成すれば皆、仏道を完成するであろう。 或いは七宝でつくり、銅、赤白銅、白銅、鎗、錫、鉄、木、陀土、或いは膠や漆を染ました布によって美しく飾って仏像を作った人々、この様な諸々の人らは 皆、仏道を完成するであろう。 三十二相の一々を百の福相によって飾った仏画を壁に自ら描き、もしくは人に描かせた人々は皆、仏道を完成するであろう。 或いは童子の戯れに、或いは草木及び筆、或いは指の爪で仏像を描いた人々、 この様な諸々の人らは皆、次第次第に功徳を積み、大悲の心を備えて皆、仏道を完成し、ただ諸々の菩薩のみを教化して、無量の人々を救うであろう。 もし人、塔や廟の宝像や仏像に花や、香や、幡や、天蓋を、心から尊敬して供養し、もしくは人をして音楽を奏させ、鼓を打ち、角笛や法螺貝を吹き、斎や、笛 や、琴や、竪琴や、琵琶や、鏡や、鋼鉄など、この様な諸々の妙音を悉く鳴らして供養し、或いは歓喜の心をもって仏の徳を讃える唄を歌い、ないしは、一つの 小音をもってしても皆、仏道を完成するであろう。 もし人散乱した心で、しかも、たった一本の花で仏像を供養したとしても、次第に無数の仏を見るであろう。 或いは人あって礼拝し、或いはまた、ただ合掌のみし、ないしは、片手のみを挙げ、或いはまた少し頭を下げて、これによって像を供養したとしても、次第に無 量の仏を見、自ら無上道を完成して、広く無数の人々を救い、心も体も余す処なく滅した永遠の平安に入ること、薪が尽きて火が消える様である。 もし人、散乱した心で塔や廟の中に入り、一度南無仏と称すれば皆、仏道を完成するであろ う。 諸々の過去の仏が、現在しているとき、或いは世を去られたのちに、もしこの教えを聞く事があったならば皆、仏道を完成するであろう。未来の諸々の世尊達 は、その数を量ることも出来ないが、この諸々の如来達もまた、方便して教えを説かれるであろう。 一切の諸々の如来は、無量の方便をもって、諸々の生ける者達を救って、他の汚れなき智慧に入れられるであろう。 もし教えを聞く者があれば、一人として仏にならぬ者はないであろう。諸仏の立てた誓願は、自分が実行した仏道を、普く生ける者達に、同じ様にこの道を得さ せたいというのである。──

{後略}

** 引用おわり



 また、六祖慧能による覚りの素質の説明は、六祖壇教に見られる。

 →  慧能(ブッダ)による<素質>の説明