【仏智と人智】

本来あってはならないことであるが、人が覚りの境地に至ることを目指して歩むとき仏智に到達しないで誤って人智に辿り着いてしまうことがあり得る。 これは、仏智(=諸仏の智慧)と似て非なるものが人々(衆生)の心の奥底に人智(=人類の集合的無意識としての知見のエッセンス,分析心理学にいういわゆる元型群)として横たわっているためである。 しかしながら、そこは人が辿り着くべき本当の目的地ではない。 こころある人は、決して人智に迷い込んではならない。

しかしそうは言っても、人々は人智に陥りやすいものである。 なぜならば、人智は一種魅力的なものであるからである。 人が人智に近づき、まさに人智に行き着こうとしているとき、かれはかつて味わったことのない感動、共感、躍動などを覚えて涙を流し、胸を震わせ、あるいはパトス(熱情)やアガペー(ひたむきな愛情)を生じ、その結果ある種の万能感・絶対的な自由感・至福感にひたるであろう。 その鮮烈な感動ゆえに、ある者はこれこそが人が辿り着くべき心の終着点であると考え、これを知るために生きて来たのだと思い為し、これこそが覚りの境地(=ニルヴァーナ)なのだと信じ込んでしまう。 実際、人智は人に世人としての究極の安心や安楽を享受せしめるものであるのは確かである。 もし人が、辿り着いた人智に執著を起こせば抜け出すことは難しい。 かれは、心が人智に鷲掴みにされてしまったのであるからである。 ここに至ってしまっては、かれは敢えて人智を抜けだそうなどとは夢にも思わないであろう。

もろもろの如来は、世人の少なからぬこのありさまを見て人智を避けて正しく仏智に辿り着くべきことを説くのである。

明知の人は、怖れることはない。 明知の人は、決して人智に陥ることはないからである。 直き心をもつ人も、怖れるに足らない。 直き心をもつ人は、たとえ一時的に人智に陥ることがあるとしても必ずそこを脱するからである。

人は、人智に陥ることなくすみやかに仏智へと辿り着くべきである。 そこだけが、虚妄ならざる安穏(=ニルヴァーナ)なのである。


[補足説明]
中国の禅の六祖-慧能(ブッダ)は、自ら著作した六祖壇教において人智を「衆生の知見」と呼び、仏智との違いについて次のように述べている。(法達の参門から引用)

── {慧能}大師は、法達に言われた。 私は、常に次のことを願っている。 すなわち、一切世間の人々は、心において常に自ら仏の知見を開いて、衆生の知見を開いてしまうことが無いようにすべきであると。 世の人は、もしその心が邪悪であれば、愚かにも迷い、{自ら}悪を造って、{そうとは知らずに}衆生の知見を開いてしまう。 その一方で、世の人は、もしその心が正しくありさえすれば、智慧を起こして観照し、自ら仏の知見を開くに至るのである。 衆生の知見を開いてはならない。 仏の知見を開きさえすれば、即ち仏が世に出現するのである。 ──

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