【安心・安楽・安穏】

人は、あるものにすっかりと心をあずけることによって、「安心」「安楽」「安穏」を得ることができます。


安心: 信頼する人(親や師)に心をすっかりとあずけることによって、安心を得ることができます。 しかしながら、心をあずける人がいなくなってしまうと、それと同時に安心も消え去ってしまいます。

安楽: 人類が共有する普遍的感動(人類の叡智)にひたりつつ、それを以て近しい人々に心をすっかりとあずけることによって、安楽を得ることができます。 しかしながら、安楽の根拠たる人類の叡智(集合的無意識の一側面)は、社会的・文化的背景の違いによって互いに軋轢を起こしやすく、それが唯一、最高の答えでは無いのだと知られます。 また、人類の叡智は、それ自体が時代とともに変化している常ならぬ性質のものであるために、それに依拠して得た安楽が長く続くことはありません。

安穏: 完成した正しい平等心を以て衆生に心をあずけることによって、揺るぎなき、虚妄ならざる安穏の境地(ニルヴァーナ)に至ることができます。 すなわち、かの人は智慧に生きることが安穏であると知るのです。 なお、智慧は人類が作為したものではないゆえに、如何なる文化の影響をも受けることがなく、またそれは時代とともに変化することもありません。 この智慧によって至った安穏(ニルヴァーナ)こそが、この世における唯一の、不滅の安穏の境地であるのです。


[補足説明]
安心は、人間関係にひたっています。 一方、安楽は現実の人間関係を敢えて排斥し、魂に生きる道を選んだ結果です。 これらは、どちらも人間関係ということに依拠した境地という点では共通しており、それゆえに移ろいゆくもの、無常なる境界に過ぎません。 しかしながら、安穏は人間関係自体から正しく離れた境地です。 すなわち、安穏は人(相手)と時と場所を選ぶことなく成立する不動の境地であり、この境地だけが如何なる他者にも依存せず自らのみを正しく依りどころにしているのです。

[補足説明(2)]
安心は名称(nama:個人的経験)に立脚した精神の安定であり、安楽は形態(rupa:人類の集合的経験)に立脚した精神の安定であり、安穏は仏智(諸仏の誓願:作られざるもの)に立脚した精神の究極の安定です。