【”デビル”(知恵の輪)】

”デビル”という名前の、知恵の輪(キャストパズル)があります。(右の写真を参照)

この”デビル”は、大変完成度が高い知恵の輪で、難易度も★★★★でかなり難しいとされています。

さて、智慧の別称の一つとして無分別智が知られているように、この”デビル”にもふさわしい別称を与えることを考えてみましょう。

ところで、別称とは、その本当の名前とは別にそれの特徴をよく言いあてた名前のことです。 そして、無分別智という知恵の別称に倣って、この”デビル”にそれと似たような意味合いで別称を与えるとするならば、次のような別称がふさわしいと私は思います。

 ”ぶらさげてひっかける”

そして、もしこの”デビル”をすでに完全に解いている人がこの別称を聞いたならば、なるほどそれはピッタリの名前だと賛同するに違いありません。

  → より凝縮された別称


[最高のヒント]
上記のケースでは、別称はそれ自体が最高のヒントになっています。 ”デビル”は、まさに”ぶらさげてひっかける”ことによって完全に解けるからです。 しかしながら、そうは言っても、一体どのようにぶら下げて一体何をどこへ引っかけるのかは、まだこの知恵の輪を解いていない人にはさっぱり理解できないことでしょう。

[言っても許されるであろうヒント]
知恵の輪のヒントを出す場合、うっかり言ってはいけないものがあります。 すなわち、それをうかつに聞いてしまうと、その人は知恵の輪が解けたときに得られる筈の感動を無くしたり損なったりするおそれがあるからです。 しかしながら、それらの言ってはならないヒントとは別に、ここまでは言っても許されるであろうと考えられる幾つかのヒントがあります。 以下に、そのようなヒントの例を思いつくままに列記します。

○ 力ずくでは絶対に解けないよ
○ 力ずくで無理強いすると、(壊れて)本当に解けなくなっちゃうよ
○ 何回放り投げても絶対に解けないよ
○ 偶然に離れることはあっても、偶然に解けることは無いよ
○ いらいらしたり怒ったら解けないよ
○ 解ける人には10分で解けるだろうけど、解けない人は一生無理かも知れない
○ 才能はいらないけれど、センスはいるだろうね
○ 誰でも解ける筈だよ(特別に頭の良い人で無くても解ける筈)
○ 解けるときには幼稚園児でも解けるよ
○ 精密に作られているわけじゃないけど、細かいところがよくできているよ
○ ピースの材質は関係ないよ
○ 表でも,裏でも,どちらでも,同じ答えだよ
○ 熱意を無くしたら解けないだろうな
○ 一晩頭を休めたら解けるというものではないよ
○ 心も体もリラックスしないと解けないよ
○ 他の知恵の輪とはまったく違うユニークなものだな
○ 他の人が解けるということだけを目の前で証明してくれると、自分も解けるようになるよ
○ ”デビル”が解ければ、他の多くの知恵の輪は解けたも同然だろうな
○ 逆に、他のいろいろな知恵の輪が解けたら、”デビル”も解ける可能性は高いね

また、ヒントではありませんが、解けずに悩んでいる人に次のような励ましの言葉をかけることもあるでしょう。

○ ”デビル”が解けたとき、きっと感動するに違いないよ
○ 長く解けなかった人ほど大きな感動がある筈だよ(だから、諦めないで)
○ 解けたとき、これを考えた人を尊敬したくなると思うよ
○ 解けた後、”デビル”を人々に紹介したくなるよ それほど感動的なんだ
○ 完全に解いて理解した人は、眼をつぶっても解けるようになると思うよ


[分かる人は分かる?]
上に列記したいろいろなヒントを、”デビル”をすでに完全に解いた経験がある人が耳にしたとき、これらのすべてに対してまったくその通りであると肯かれるであろうことは間違いありません。 なぜなら、これらのヒントには嘘いつわりが無いからです。 したがって、ある人がこのような巧みなヒントを出すという事実は、その人が過去に”デビル”を間違いなく解いた経験があり、今も解くことができるということの間接的な証明であると言えなくもありません。

しかし、これらのヒント群は、言葉であるゆえに伝承することも可能ですから、ヒントを出せるという事実だけにもとづいてその人が”デビル”の解き方を本当に知っているとは言い切れないでしょう。 その上、”デビル”が未だ解けていない人にとっては、仮に口からでまかせの似而非ヒントであってもその真偽を判断できないという弱みがあるために、その人の言うヒントと称するものを無批判に受け入れるか、あるいは疑って拒絶するかの二者択一を迫られることになります。 勿論、その人が目の前で”デビル”を解いて見せればそれで済むことですが、敢えてそれをしないかあるいはそれができない事情があって、あくまでも言葉だけでその実力があることを示そうとするならば、先の疑いを晴らす手段はほとんど無いと思えます。 このようなとき、”デビル”の解き方を知ると称する第三者が彼と同じように他のヒントを提示し、彼らどうしではそれぞれが提示したヒント群を暗黙のうちに互いに了解し合っていることを目撃したならば、そのことを信じる気になるかも知れません。 しかし、そのような場合でも、その二人が同じ間違いや思い違いを犯していることもあり得ます。 そのような訳で、如何に多くの人々が口を揃えて”分かる人には分かる”と言い、互いに諒解し合っているのを目撃したとしても、やはりそれだけではそのことを信じ切ることはできないでしょう。 そして、この場合、そのように懐疑的に対応する態度はまったく合理的な判断であると言えるでしょう。 聞いただけの話は、所詮当てにはならないからです。

  → 似而非ヒントの例

[どうすれば分かる]
さて、一体どうすれば”デビル”が解けるようになるのでしょうか。 先のヒント群は、どれもが本当にヒントとして正しく機能するのでしょうか。 それは、すぐには分からないでしょう。 それが確実に分かるのは、自分自身で”デビル”を解いたときだけです。 そのとき、かつて聞いたいろいろなヒントが正しかったのかどうかを、後付けで判断できるに違いないからです。 なお、ここではただ闇雲に信じるべきだ、という非現実的,狂信的行為は脇に置いておきましょう。 つまるところ、相手の混乱を最小限度に抑えて、より有効なヒントを出すことを考えましょう。 そのような立場で、ヒントとして正しく機能するであろうと期待され得るヒントの中のヒントを選び出すならば、例えば次のようなものに限られてくることでしょう。

● 誰でも解ける筈だよ
● 熱意を無くしたら解けないだろうな
● 心も体もリラックスしないと解けないよ
● ”ぶらさげてひっかける” これこそが答えだよ
● 他の人が解けるということだけを目の前で証明してくれると、自分も解けるようになるよ
● 逆に、他のいろいろな知恵の輪が解けたら、”デビル”も解ける可能性は高いね
● ”デビル”が解けたとき、きっと感動するに違いないよ
● 長く解けなかった人ほど大きな感動がある筈だよ(だから、諦めないで)

キーワード) 仏性,熱望,観,無分別智(正法{公案はこれに準じる}),如来あるいは善知識(理法),他仏(過去七仏),特殊な感動(頓悟),精励(信)


[補足説明]
未だ覚りの境地に至っていない人にとって、無分別智についての説明や善きヒントはまったくちんぷんかんぷんに聞こえることでしょう。 わざと混乱させているのではないかと、疑惑を生じ、根拠のない悪意を妄想してしまうことさえあるかも知れません。 それは、知恵の輪についての別称や様々な良きヒントでさえ、まだ知恵の輪を解いていない人にとってはちんぷんかんぷんであることと似ています。 ただし、決定的に違うことは、知恵の輪の解き方は言葉や絵や図を用いて伝授したり、あるいは目の前で実際に解いてみせるという最後の手段がありますが、覚りの境地に至る道については、そのような手段がほとんど無いという困った現実があることです。 また、知恵の輪においてさえ言ってはならないヒントがあるように、覚りの境地に至るプロセスについても言うべきではないと考えられることが多くあるのです。 ですから、覚りの境地を知る人は、言葉少なく、慎重に吟味した上でなければそのことを語ることはないでしょう。 それは、決して勿体つけている訳ではなく、話す相手が覚れなくなってしまうという最悪の事態を避けようとして、そのようにせざるを得ない一面があるのです。 それは、意地悪ではなく、自らが特殊な感動とともに至ることを得た覚りの境地に、相手にも同じように到達して欲しいと望むゆえのことなのです。 感動を生じなければ知恵の輪を解いたことにはならないように、特殊な感動無しの覚りは考えられないのだと知るゆえのことであるのです。

[補足説明(2)]
知恵の輪に取り組むとき、絶対に勘違いしてはならないことがあります。 それはすなわち、知恵の輪はそれが解けない人が知恵の無い(馬鹿な,劣った)人であることを知らしめるためにあるのではなく、それを解くことによって一つの喜ばしい知見を感動と共に自分のものにしてもらいたいと願って作られたものであるということです。 その証拠に、とある知恵の輪の箱裏には、取り組んでいる最中の人の心を察して気づかった次のような注意書きがあるからです。

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         △ 注意(ちゅうい)
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  ● 投げたり、振り回したりしないでください。
     思わぬケガをすることがあります。