【やさしさの起源】

やさしさはどこから来るのでしょうか? 人々は、「それは、きっと生まれてからこれまでに得た経験や人として持って生まれた人情に由来するのであろう」と 漠然と考えているかも知れません。 しかしながら、真実のやさしさは、人が個人的な経験によって獲得したものでは無いのであると知られます。 また、真実 のやさしさは、人類が長い年月を重ねて熟成させてきた文化、すなわち人情(感激)や人情のエッセンス(感動)から出てくるものでも無いのであると知られる のです。 真実のやさしさの起源(ルーツ)は、それらよりもさらに深いこころの場所と言うべきところにあって、各自の因縁によって突如として表層に突き上 げてくるものであるからです。

人々は、やさしさが顕わになるときには、それと同時に胸を震わせる深い感動を生起するものだと思い込んでいるかも知れません。 しかしながら、真実のやさ しさはそのような動揺した意識の中で現れるのでは無く、まったく揺らぐことのない研ぎ澄まされた意識の中で顕わになるのです。 実際に、覚りに向かいつつ ある観の終着点において人がその〈特殊な感動〉にひたっている間、心は完全に冷静であり、平静であり、まったく揺らぎがないことを知るのです。

真実のやさしさがもたらすこの〈特殊な感動〉は、それが「生まれて初めて味わった感動である」ということが本人に知見されるため、それがそうなのだと主観的に判別できるのです。

なお、人類が作為した世間的な「感激」や「感動」には、次のような共通点があると言ってよいでしょう。

 (1)繰り返し味わうと、飽きがきて感動(感激)しなくなる
 (2)どれもこれも突き詰めれば似たような「感激」であり「感動」であることに気づく

一方、真実のやさしさがもたらす〈特殊な感動〉には、(1)、(2)のようなことが無いのです。 それによっても、それが真実のやさしさによってもたらされた特殊な感動であることを知ることができるでしょう。


[補足説明]
それが生まれて初めて味わった感動であるということを指して、金剛般若経では『応無所住而生其心』、すなわち「住する所無くして、しかも其の心を生ずべ し」と述べています。 ここで、住する所が無いとは、いかなるものにも寄りかかることが無くしてという意味であり、平たく言えば生まれる前から内在してい る何かであるというべき「それ」という意味です。