【智慧】

「それ」を正しく理解するならば、直ちに覚りの境地に至るその知見を<智慧>と名づける。 この摩訶不思議なる働きこそが智慧の本質でありすべてである。 したがって、人をして覚りの境地に至らしめることの無いあらゆる知見、(哲学的)見解、知識、見識などは智慧ではないと知らねばならない。

智慧は、人をして一気に覚りの境地に至らしめるものである。 したがって、人をして段階的な精神的境界へも導くものであると世人が見なし信じているものは智慧ではない。 すべからく、覚りは頓悟であって漸悟ではないと知られるからである。

智慧の余韻は、完全な後味のよさを有している。 敢えて説明すれば、智慧を用いるときにはそれを用いる前も喜ばしく、用いている最中も喜ばしく、用いた後も喜ばしいという確かな認識が起こる。 また、智慧は、それを用いた本人にとっても喜ばしく、相手にとっても喜ばしく、それを目撃した人々(ギャラリー)にとっても喜ばしく、またその顛末を聞き及んだ現在の人々、および未来の人々にとっても喜ばしいものとなる。

智慧が顕わになったとき、人は生まれて初めての〈特殊な感動〉を味わう。 この特殊な感動は、世間で知られる種々さまざまな感動とは明らかに違っている。 具体的には、絵画、音楽、文学、映画、芸能、食事、飲料、香料、マッサージなどの接触、ダンスやスポーツのハイ、祭りなどの一体感などから得られる感動や情動とは違うのでそれと分かるのである。 また、この特殊な感動は、それを知る人がふと想い起こしたとき、褪せることなく何度でも繰り返し味わうことが出来るものであり、その味わいは時を経ても損なわれることがない。 それゆえに、これを〈特殊な感動〉と呼ぶのである。

智慧は、それが現出した苦の状況(シチュエーション)における唯一の完全な解決法である。 したがって、智慧よりすぐれた答えはあり得ない。 すなわち、智慧は、その状況についての一意で、一義で、最勝で、完璧で、完全なただ一つの答えである。 したがって、そうでないもの、すなわち繰り返される性質のものや使い廻しできるものは智慧ではないと知られるのである。

智慧は、対象についてのあらゆる思惟・考研の埒外にある。 したがって、何をどのように分析したり、綜合したり、統合したり、実践したり、理論づけしたりしても智慧を得ることはできない。 智慧は、科学的にも、哲学的にも、法学的にも、神学的にも導き出すことはできないものである。 すなわち、智慧は生まれてこの方、見たり、聞いたり、考えたり、想像したり、経験したり、議論したり、あるいは思い込んだりしたあらゆることがらの総体を超えている。

智慧は、あらゆる分別を超越した所から出てくるものであり、それゆえに無分別智とも名づけられる。 言い換えるならば、智慧を出すために、何かを勉強したり、話し合ったり、考えたり、経験したり、想像したり、見聞を広めたりする必要は何も無い。 なぜならば、智慧はそのようなこととは無関係に突如として人の身に顕現するものであるからである。 すなわち、智慧は人類が作為したものでは無く、人類のあらゆる経験要素を超越し、さらに集合的要素さえも超越したものであり、いわばそれらとは無関係に存在する”何か”である。

智慧は、もしそれを一つでも得れば完備(コンプリート)なる無限の智慧すべてを得ることができる。 それは、例えば赤色という色をたった一つでも知ったならば、それと同時に無数の赤色をすべて知ったことになることに似ている。 すなわち、赤色という色をすでに知った人は、(生まれて初めて見る)別の赤色を見てもそれが赤色であると正しく認識できるようになるからである。 完備なる智慧を得ることも現象論的にはそれと同じであると言って差し支えない。 すなわち、ある人がもしもたった一つでも智慧を得たならば、かれは他の状況(シチュエーション)において生まれて初めて思い浮かんだ他の知見(智慧)が、まさしく智慧であることがはっきりと分かるようになるからである。 このように、ひとたび智慧が顕現するとき、完備された智慧のすべてを漏らさず理解できるようになるゆえに、智慧を<無漏智>とも呼びならわす。 また、智慧は完備されていて何一つ付け加えるべきものが無く、逆に何一つ取り外すべきものも無いという意味で、<不増不減>とも言われる。

智慧が顕わになったとき、智慧を生じたという正しい認識(=智)が起こる。 この認識の一つは、すでに上で述べた智慧の味わい(金剛般若経に言う「応無所住而生其心」)のことであるが、それとは別にはっきりとした認識を生じるのである。 それは、自らの身に間違いなく智慧を生じたのだという直なる認識である。 人は智慧を生じたとき、智慧を生じたという疑う余地のない確信を得るのである。 それは例えば、大人には自分が間違いなく大人であるというはっきりとした直なる認識と疑う余地のない確信があるようなものである。 大人は、自分がもう子供じみたいかなる行為も出来なくなっているという事実の認識がある。 智慧を生じたという認識・確信も同様なものである。 それは、他の誰かに認定してもらう必要もないものであり、かれにとってそれは自明のこととして認知されるものである。


[補足説明]
智慧は働きであり、その根元は法華経に言う「諸仏の誓願」に他ならない。 このことを詳しく知りたい人は、法華経・方便品第二を参照するとよいであろう。

  → 諸仏の誓願(法華経 方便品第二から引用)