【公案】

<観(止観)>を具体的にどのように行えばよいのかが分からない人は、公案に取り組むとよい。以下に、観と等価な公案を記す。

ただし、この公案を解きさえすれば周到に覚りの境地に至るのであるとは断定的には言えない。なんとなれば、公案を援用して覚りの境地に至る場合、公案を解 いた後でそれが平等観と等価であることを領解できるかどうかによってそれが覚りに役立ったかどうかの分かれ目となるからである。そして、その領解が為され 解脱が実際に起きたとき、そのときはじめて一大事因縁が現れたのであると認められるのである。

[平等観と等価な公案]

 『どうしてもいけなければどうするか』 :久松真一氏の基本的公案といわれる


[補足説明]
久松真一氏による注釈:

どういう在り方でも、われわれの現実の在り方は、特定の在り方であり、何かである。何かである限り、何かに限定され繋縛された自己である。何ものにも繋縛されない自己、それをまずわれわれは自覚しなければならない。

「立ってもいけなければ、坐ってもいけない。感じてもいけなければ、考えてもいけない。死んでもいけなければ、生きてもいけないとしたら、その時どうするか」

ここに窮して変じ、変じて通ずる最後的な一関があるのである。禅には、古来千七百どころか無数の古則公案があるが、それらは結局この一関に帰するであろう。

『絶対危機と復活』(著作集第2巻、法蔵館)より(p.191) 

注記) 上記は、FAS協会のホームページから引用。