Re:[18] 無題 投稿者:SRKWブッダ 投稿日時:2023/03/28(Tue) 11:30 No.19   [返信]
> こちらの黒い鏡の考案について、質問です。
> http://srkw-buddha.main.jp/kouann_itiennno_kouann.htm
>
> 「黒い鏡に徹する」ことができれば、その二人の間に苦悩の連鎖はなくなるのだと解釈しています。
>
> 「黒い鏡に徹する」のは、ブッダだからできることでしょうか。
> それとも、衆生が黒い鏡に徹することはできるのでしょうか。

→ 公案の内容についてあれこれ問うことに意味はなく、回答を示してこそ意味をなすものです。そして、その回答は唯一の正答でなければなりません。

***
無題 投稿者:うえいが 投稿日時:2023/03/27(Mon) 16:16 No.18   [返信]
こちらの黒い鏡の考案について、質問です。
http://srkw-buddha.main.jp/kouann_itiennno_kouann.htm

「黒い鏡に徹する」ことができれば、その二人の間に苦悩の連鎖はなくなるのだと解釈しています。

「黒い鏡に徹する」のは、ブッダだからできることでしょうか。
それとも、衆生が黒い鏡に徹することはできるのでしょうか。
Re:[16] 止観 投稿者:SRKWブッダ 投稿日時:2023/03/09(Thu) 12:31 No.17   [返信]
> 悪人ばかりに囲まれて不運続きの自分に嘆いて、この世は悪人ばかりなのか!と絶望しておりました。
>
> 被害者だと言う思いを捨て去って考えてみると、止観出来ました。
>  (以下略)

→ 善悪を知る人は、明知ある人である。そのような人の学識は常に増大する。知るべきことを知り、為すべきことに正しく思い至った人は、自らの道を浄める。そうして、さらに功徳は積まれ、ついに円かなやすらぎ(=ニルヴァーナ)に到達するのである。

***
止観 投稿者:むむむ 投稿日時:2023/03/08(Wed) 15:30 No.16   [返信]
悪人ばかりに囲まれて不運続きの自分に嘆いて、この世は悪人ばかりなのか!と絶望しておりました。

被害者だと言う思いを捨て去って考えてみると、止観出来ました。

私の在り方が、まるで“悪人ホイホイ”のごとく
悪人を誘引するべく罠を仕掛けているも同然でした。そればかりか、隣に居る親友までもが悪人に変貌せざるを得ない程、強い芳香を漂わせていたのです。
そして罠にかかったたくさんの悪人共をみては絶望していたのです。誘引したのは自分なのに!
親友を悪人に仕立て上げたのは自分なのに!


自らの因を正して行きます。
無題 投稿者:J 投稿日時:2022/12/25(Sun) 22:05 No.15   [返信]
そうでしたか。ブッダはリラックスしていると聞いていたので、勘違いをしていました。
私の緊張(肩首背中の強張り)はどこか人間不信や自信のなさ、社会不信や何かのカルマでもあるのかなと色々考えておりました。ありがとうございます。

ですが最近、良い感じに歩めているように思います。道の歩みに自覚は伴わないのかもしれませんが、何故か良い感じであると感じています。心が定まりつつあります。良かったです。長年道を求めてまいりましたが、もうちょっとのような気が致しております。

皆様も、よく道を歩まれて下さいませ。
Re:[13] 緊張について 投稿者:SRKWブッダ 投稿日時:2022/12/25(Sun) 11:08 No.14   [返信]
> 私は日常的に、どこか緊張していてリラックスできていません。
> 緊張が解けるにはどうしたらよいのでしょうか。

→ 仏道修行の目的は、苦の体たるこの名称と形態(nama-rupa)を解きほぐすこと。緊張はその対象ではありません。

***
緊張について 投稿者:J 投稿日時:2022/12/23(Fri) 23:57 No.13   [返信]
私は日常的に、どこか緊張していてリラックスできていません。
緊張が解けるにはどうしたらよいのでしょうか。
Re:[11] ニルヴァーナの在り処を知って 投稿者:SRKWブッダ 投稿日時:2022/11/11(Fri) 11:48 No.12   [返信]
> 仏道を歩くと言う事は、ニルヴァーナの在り処を知って、それで仏道を歩いて行くのでしょうか。

→ 仏道を歩むと言うことは、ニルヴァーナの実在とその自分自身における体現を信じて、慌てることなく、よく気をつけて日々を過ごすことに他ならない。

そこにおいて、真実を知ろうとする動機を生じ、また知るべきことと知るべきでないこととを弁別する知(明知)が培われて、為すべきことが思い当たり、次第次第に功徳は積まれ、ついにこの世の最高の目的を果たすに至ると期待され得る。

***
ニルヴァーナの在り処を知って 投稿者:J(旧・慈栄) 投稿日時:2022/11/11(Fri) 03:27 No.11   [返信]
仏道を歩くと言う事は、ニルヴァーナの在り処を知って、それで仏道を歩いて行くのでしょうか。
Re:[9] なんか硬くてすみません。 投稿者:SRKWブッダ 投稿日時:2022/07/20(Wed) 13:10 No.10   [返信]
(前を略)

> ブッダさん本物かもと思ったんで、経典との決定的な矛盾を素直に質問させてもらいました。
> 批判じゃないすからね。
> ただ、私から見ると、違うんですよ。
> 矛盾にしか見えないんです。
> この部分は。

たとえその教説が完全に理法に適った正しいものであるとしても、ある人がそこに矛盾を感じるのであるならば、その人はその教説を信じるにはたりず、したがってもちろんその教説に従った修行に勤しむべきではない。

また、その完全に理法に適って正しく説かれた教説を耳にして、それを心から信じることが出来たとしても、そのことが、それだけによって彼をして解脱せしめる根拠とはなり得ない。

なぜならば、解脱はすべからく因縁によって起こることであると知られるからである。そして、その因縁があるならば、その覚りの因縁を生じたときにある人は慧解脱し、ある人は心解脱し、別のある人は身解脱(形態(rupa)の解脱)することになる。ただし、解脱の階梯は固定化されるものではなく、事後に、さらに他の解脱を重ねて生じることは現実にも見られることである。

この意味において、慧解脱、心解脱、および身解脱(形態(rupa)の解脱)のどれを予め目指すとか、あるいはその順序にこだわることは特別の意義を為すものではないと考えて大過ない。

たとえば、絵画を構成する要素が、大きく「デッサン」と「色彩」であるとして、そのどちらを先にマスターするべきかは一概には言えないようなものである。さらに言えば、これらのどちらか、あるいは両方に不完全さを残していたとしても、それ以外の要素によって素晴らしい絵画として成立することさえある。

同様に、覚りに向けた修行の目的がニルヴァーナに達すること(絵画で言えば素晴らしい絵)であるとするならば、解脱の階梯(種類)にこだわることそれ自体がナンセンスであると言えよう。

正しく解脱したときには、世間の喧噪に逆戻りすることのない安穏の境地に住することになるのであり、それが達成できたならば彼は間違いなく覚っているのである。

また、すべての修行者は基本的に師無くして覚るのであり、いかなる如来の言説を聞いて参考にするとしても、その聞き知ったことがらにこだわってはならない。覚りは、最初から最後まで各自のことがらである。心構え正しく、真実を知ろうと熱望する人が、次第次第に功徳を積んで、ついに解脱するのである。それを第三者が(それがたとえ如来であろうとも)予見することはできない。恣意的にアドバイスすることもできない。

ドライに言えば、覚る人は覚るし、覚らない人はついに覚らない。これがこの世の現実なのである。

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