【念仏】

通常、念仏は何か固有の願いを叶えようとして行われるものである。 しかし、このときかれが念仏によって願いを叶えたいと心から思うのであるならば、その固有の願いは決してかれだけのものではなく人類普遍のものでなければならない。 そうすればこそかれはその願いの代弁者となり、同時にその当事者(主宰者)となるのである。 かれは、「南無仏」と唱え念仏する。 念仏がまさしくこのように為されたとき、その時に限り念仏は念仏として成立する。

ところで、いかなる念仏によってもかれのその固有の願いが叶えられることはついに無いであろう。 作法通り正しく行われた念仏であってもそうである。 しかし、正しく行われた念仏は決して無駄とはならない。 なんとなれば、かれはその念仏によって自ら願ったその固有の願いを超えた究極の願いを達成することになるからである。 それは思いもよらない形で結実することになる。 かれは、そのとき念仏の真実の意味と真相とを知って驚くにちがいない。

しかしながら、究極のやすらぎを求める人は安易に念仏に手を染めるべきではない。 それはたとえば、賭博によって利益を得て、それで人助けをしようと考えるようなものであるからである。 真っ当な人ならば決してそのようなことはせず、そのようなことなど考えもしないであろう。

聡明な人は、その過患を知って念仏へのこだわりを離れるべきである。 人づてに聞いたものでも、自分自身で体験したことでも、念仏の見かけの威力に幻惑されてはならない。 そもそも、人は念仏によらずとも願いを叶える真実の方法をこころに知っている筈である。 自らのこころに問うてことの真相を見極め、念仏によって願いを叶えようとする根底の執著そのものを払拭せよ。 そして、たとえ生き身の如来に出会っても念仏の心を起こしてはならない。 念仏するときには、外なる仏にではなく内なる仏と出会って念仏すべきであるからである。 それを為し遂げたとき、かれは真の念仏とは実は念仏ではなく、自ら仏になる決心に他ならないことを知るであろう。