【仏を眼前に見てさとること】
無所有の人(=諸仏、如来、世尊、化身(善知識))に出会うことは、世に稀有なることである。 しかしながら、その機会を得たならば人は大いなる利益(りやく)を得ることになる。 なんとなれば、
・ その人の所作・振る舞いを垣間見て、こころある人々は円かなやすらぎ(=ニルヴァーナ)の虚妄ならざることを識るからである。
・ その人の語ることば、あるいはその断片を聞いてさえ、こころある人々は円かなやすらぎ(=ニルヴァーナ)の虚妄ならざることを識るからである。
・ その人の行為の根底にある正しい想い(=真如)を微かなりとも感じては、こころある人々は円かなやすらぎ(=ニルヴァーナ)の虚妄ならざることを識るからである。
もし人が、円かなやすらぎ(=ニルヴァーナ)の虚妄ならざることを識ったのであるならば、それは世の利益(りやく)の中の最上のものを得たのである。 こころある人々は、まさしくそのようにして(つまり諸仏に親近して)功徳を積み、自らの仏道を完成させるからである。
すぐれた行いを見て自分もそのようにできるようになりたいと思うことは求道のはじめである。 そして、すぐれた行いを見て「これはまさしく(生まれて初めて知った)すぐれた行ないである!」と心底に思うことが、求道の終わりなのである。 けだし、人はそのようにして解脱するからである。 人は、瞬時にしてすべてを学び終えるのである。
人が正しく目覚めたならば、自分の本当の望みを知ることになる。 それは、浄き道の歩み(=如来道)の基底を成すものである。 そして、正しく道を歩む人は正しく道を歩む人と都度に出会うことになる。 正しく道を歩む人には、悪が近づくに由無し。 それゆえに、正しく道を歩む人の歩みはつねに平らかである。
人は、このようにさとり覚り終わって、自らの覚りにまつわる因縁を後づけで理解するのである。