【善知識】

 この世には、世俗の中にありながら、ときとして<真理の言葉>を発する人が現れる。この<真理の言葉>は、それを聞いて、その意味するところを知る人が あるならば、かれをして不滅の安穏(=ニルヴァーナ)へといざない、導き、至らしめる働きを為す。世にも不思議な、稀有なる働きゆえに、この<真理の言 葉>を<善知識>と名づけ、同時にその言葉を発したかれ自身も善知識と呼ぶのである。

 善知識は、他の人に好まれる一言を与えようと思って計らう人ではない。なぜならば、善知識は、他の人に期せずして善なる道(=覚りの境地に通じる道)を 与えてしまう人のことであるからである。そして、この善知識が発する<真理の言葉>、すなわち<善知識>それ自体も決して特別な言葉では無く、ごく平易な 言葉として語られるものであり、何気ない一言として発せられるのである。したがって、<善知識>は、たといそれがまさしく発せられて、誰かがそれをまさし く聞き及んだとしても、かれに直ちに感激を与えるような言葉では無い。しかしながら、<善知識>は、「それ(=真如,=覚りの境地,=覚者)」の実在をこ ころに知っている信仰篤き人々に、それがそうだと知られることになるのである。なぜならば、<善知識>は、かれらにこの世における最も美味なる味わいをも たらすからである。<善知識>は、それが発せられた局面に立ち会ったすべての人々を誰一人として悲しませることの無い言葉として特徴づけられ、誰ひとりと して後悔の念を生じることの無い完全な結末をもたらす。けだし、<善知識>こそ世における法(ダルマ)の現れに他ならないからである。

 ところで、善知識は覚りの境地に至ることを目指す人が自分自身で見いださなくてはならない。他の誰かが、「あの人がそうですよ」と指し示してくれる訳で はないからである。しかしながら、もし人が、心構え正しく、よく気をつけて、善なるものの真実を知ろうと熱望するならば、かれはついにその人(=善知識) を見いだすであろう。

 こころある人は、善知識はまさしくこのようにして見いだされるのであると領解せよ。