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 維摩経 第5章 文殊の見舞の一節

  大乗仏典 中村元編 筑摩書房 ISBN4−480−84075−3 から引用

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〈前を略す〉

 文殊が問うた、「病んでいる菩薩はどのようにその心を制し伏するのであるか?」

 維摩詰は答えた、「病んでいる菩薩はこのように念ずべきである。── いま我が受けるこの病はみな前世の妄想・転倒・もろもろの煩悩から生じたものであり、実体としては存在しない。誰が病を受ける者なのであろうか。〈病を受ける者は実在しない。〉そのわけはなぜであるかというと、四つの元素が合するがゆえにその集合をかりに名づけて身体と為すのである。四つの元素には主がない。身体もまた我がない。またこの病の起こるのは、みな我に執著するのに由来する。この故に我に対して執著を生じてはならない。すでに病の本を知ったならば、すなわち我の観念や衆生の観念を除いたことになるのである。そうしてあらゆるものがもろもろの事象〈法〉より成るものであるという理解を起こして、次のように念ずべきである、──この身はただもろもろの事象によって合成されたものである。ただ事象のみが起こり、ただ事象のみが滅びるのである。またこれらの〈事象〉はおのおの互いに相手を知ることもない。起こるときに『われ起こる』とも言わないし、また滅びるときに『われが滅びる』とも言わない。

 病人でいる菩薩は、〈事象〉が固定的なものであるという観念を滅ぼそうとするならば、次のように念ずべきである、──この〈事象〉の観念というものは、やはり顛倒した見解である。顛倒した見解というものは、大いなる患いである。わたくしはこれを離れよう。では〈離れる〉というのは、どのようにすることであるのか? それは〈われ〉とか〈わがもの〉という観念を離れることである。では『〈われ〉とか〈わがもの〉という観念を離れる』ことというのは、どのようにすることであるか? それはすなわち二つのものの対立を離れることである。では〈二つのものの対立を離れること〉というのは、どのようにすることであるのか? それはすなわち内外のもろもろの事象を念じないで、平等を行ずることである。では〈平等〉というのは、どういうことであるのか? それは我も涅槃もともに等しいとみなすことである。なぜであるかというと、我と涅槃と、この二つはともに空であるからである。なぜその両者が空であるということが言えるのか? その二つはただ名称に過ぎないから空なのである。このように対立している二つのものには、確定して変わらない本性というものは存在しない。

 この平等を体得すれば、他の病の起こることがない。ただ空病〈すなわち空に対する執著〉のみがある。この空病もまた空である。

 病のあるこの菩薩は、苦楽などを感受するはずはないのであるが、しかも苦楽などを感受し、また仏たる特性を身に具えていないし、また苦楽などの感受を滅しさとりを得るということもない。もしも身に苦しみがあるならば、苦難の場所にいる衆生のことを念じて、大悲心を起こすべきである。──わたくしはすでに身をととのえた。これから一切衆生をととのえようと。ただかれらの病を除くのであって、かれら自身を除き去るのではない。ただ病の本を断ずるためにこれを教え導くべきである。では〈病の本〉というのは何のことであるか? それは何ものかの基体があると思って認め知ることである。何ものかの基体があると思って認めることから、病の本が成立するのである。では基体であるとして認め知られるものは何であるか? それはすなわち三界のことである。基体があると思って認め知ることを断ずるのは、どのようにして起こるのであるか? それは執著して認めることのないこと(無所得)によってである。もしも執著して認めることがないならば、何ものかの基体があると思って認め知ることがない。〈執著して認めることのないこと〉というのは何のことであるか? それは二つの見解を離れることである。〈二つの見解〉とは何のことであるか? それはすなわち内面的な執見と外面的な執見とである。これがすなわち〈執著して認めることのないこと〉である。これが〈病める菩薩がその心をととのえること〉であり、また〈老、病、死の苦しみを断ずること〉である。これが菩薩のさとりである。もしもこのようなことでないならば、すでに修行したことが利がないということになる。譬えば害をなす人に勝つのが勇気であるように、そのように老、病、死をすべて除くというのは、菩薩のことである。かの病める菩薩もまた次のように念ずべきである。──わがこの病は真実のものではないし、また実在するのではないのと同様に、衆生の病もまた真実のものではないし、また実在するのではないと。

 このように観ずるときに、もろもろの衆生に対してもしも愛著にとらわれた大悲を起こすことがあったならば、ただちにそれを捨て去り離れるべきである。それはなぜであるかというと、菩薩は、外から来て清浄な心を汚す煩悩を断じ除こうとして大悲心を起こすのであるが、愛著にとらわれた悲み(あわれみ)の心であるならば生死に疲れ厭う心がある。もしもこれを離れたならば疲れ厭うこともなく、いかなるところに生まれても愛著にとらわれたものとはならないからである。

 生まれるものには、もともと束縛がない。ただ衆生のために法を説いて、束縛を解いてやるだけである。仏の説かれたとおりであるが、もしも自分がまだ束縛があるのに、他人の束縛を解いてやるのであるというならば、それは道理にかなっていない。しかし自分はもはや束縛がないので、他人のもろもろの束縛を解いてやる、と言うならば、それは道理にかなっている。それ故に、菩薩は束縛を起こしてはならない。では何を束縛といい、何を解脱と言うのであるか? 禅定の味を貪り執著することは、菩薩の束縛である。方便によってこの世に生まれることは、菩薩の解脱である。また方便の無い智慧は束縛である。智慧の有る方便は解脱である。

 では〈方便の無い智慧は束縛である〉というのは、何のことを言うのであるか? 菩薩が愛著にとらわれた心をもって仏国土を美しくかざり、衆生を完成し、空・無相・無作の法の中において自らととのえ伏する、──これを〈方便の無い智慧は束縛である〉と名づけるのである。

 〈方便の有る智慧は解脱である〉というのは、何のことを言うのであるか? 菩薩が愛著にとらわれた心をもって仏国土を美しくかざり衆生を完成するということをしないで、空・無相・無作ということわりの中において自らととのえ伏して、疲れ厭うことがない。──これを〈方便の有る智慧は解脱である〉と名づけるのである。

 〈智慧の無い方便は束縛である〉というのは、何のことを言うのであるか? 菩薩が貪欲・いかり・邪まった見解などのもろもろの煩悩のうちにあって、しかももろもろの善根を植える。──これを〈智慧の無い方便は束縛である〉と名づけるのである。

 〈智慧の有る方便は解脱である〉というのは、何のことを言うのであるか? 貪欲・いかり・邪まった見解などのもろもろの煩悩を離れて、しかももろもろの善根を植え、それらを無上のさとりに向ける。──これを〈智慧の有る方便は解脱である〉と名づけるのである。かの病める菩薩はもろもろのことがらをこのように観ずべきである。

 また身は無常・苦・空・非我であると観ずることを〈智慧〉と名づける。身に病があっても、つねに生死のうちに在って、一切のものをうるおし益して倦まないことを〈方便〉と名づける。また身を観じて、『身は病を離れていない。病は身を離れていない。この病、この身は新しいものでもないし、古いものでもない』と知ることを〈智慧〉と名づける。たとい身に病があっても、永久に滅びてしまうことがないことを〈方便〉と名づける。

 病ある菩薩はこのようにその心をととのえ制して、しかもその心の中にとどまらない。またととのえ制せられない心の中にもとどまらない。それはなぜであるかというと、もしもととのえ制せられない心のうちにとどまるならば、これは愚人のありかたである。またもしもととのえ制せられた心のうちにとどまるならば、これは教えを聞く弟子のありかたである。それ故に、菩薩は、ととのえ制せられた心と、ととのえ制せられていない心のうちのどちらにもとどまってはならない。

この二つのありかたを離れることが、菩薩の行である。
生死のうちに在って汚れた行ないをなさず、涅槃のうちに住しながらしかも永久に消滅してしまうことがない、──これが菩薩の行である。
凡夫の行でもなく、聖賢・聖者の行でもない、──これが菩薩の行である。
汚れた行ないでもなく、浄らかな行ないでもない、──これが菩薩の行である。
魔の行ないを超えているけれども、しかももろもろの魔を降伏するすがたを現ずるのが、菩薩の行である。
一切のことを知る智慧を求めるのであるが、しかし今だ修行が熟していない不相応のときにそれを求めることがないのが、菩薩の行である。
もろもろのことがらが究極においては不生であるということを観ずるけれども、しかもさとりに入るはずの正しい位に入らないのが、菩薩の行である。
十二支よりなる縁起を観ずるけれども、しかももろもろの邪まった見解をも良く知るのが、菩薩の行である。
一切の衆生を摂するけれども、しかも愛著しないのが、菩薩の行である。
遠ざかり離れることを願うけれども、しかも身心が尽きてなくなることをあてにしないのが、菩薩の行である。
欲界・色界・無色界という三界に心をはたらかせるけれども、しかも真理の境地をみださないのが、菩薩の行である。
空を行ずるけれども、しかももろもろの善根を植えるのが、菩薩の行である。
無相を行ずるけれども、しかも衆生をすくいわたすのが、菩薩の行である。
無作を行ずるけれども、しかも身体を受けて生まれかわるすがたを現ずるのが、菩薩の行である。
動作を起こさないすがたを行ずるけれども、しかも一切の善行を起こすのが、菩薩の行である。
六つの徳の完成を行じているけれども、しかも衆生の心や心の作用をあまねく知っているのが、菩薩の行である。
六神通を行じているけれども、そのうちの一つである〈汚れを滅ぼしつくすこと〉をなさないのが、菩薩の行である。
四無量心を行じているけれども、梵天の世界に生ずることを執著しもとめることがないのが、菩薩の行である。
禅定・解脱・三昧を行ずるけれども、修する禅定にしたがって上方の境地に生まれないのが、菩薩の行である。

四念処を行じているけれども、しかも身体・感受作用・心・もろもろの対象から永久に離れるのではないのが、菩薩の行である。
善をすすめ悪をとどめる四つの努力を行なうけれども、身心のつとめはげむ行ないを捨てないのが、菩薩の行である。
四神足を行じているけれども、しかも自在・神通を得るのが、菩薩の行ないである。
五つの精神的能力を行じているけれども、しかも衆生の精神的素質の利鈍を分別するのが、菩薩の行ないである。
五つの力を行じているけれども、しかも仏の十力を求めようと願うのが、菩薩の行ないである。
七つのさとりの補助手段を行じているけれども、しかも仏の智慧を分別するのが、菩薩の道である。
八つの正しい道を行じているけれども、しかも無量の仏の道を行ずることを願うのが、菩薩の行である。

さとりを得ることを助ける止と観とを行ずるけれども、徹底的に寂滅に堕することのないのが、菩薩の行である。
もろもろのことがらが、不生・不滅であると観ずることを行ずるけれども、しかもよい相好をもってその身をかざり立てるのが、菩薩の行である。
教えを聞く修行僧、独りでさとる修行者のすがたや行ないを現ずるけれども、しかも仏の教えを捨てないのが、菩薩の行である。
もろもろのことがらが究極において浄らかな相のものであるということに随うけれども、適当に機縁に応じてその身を現ずるのが、菩薩の行である。
諸仏の国土が永久に寂かであり虚空のごとくであるということを観ずるけれども、しかも種々の清浄な仏国土を現ずるのが、菩薩の行である。
仏のさとりを得て、教えを説き、入滅したけれども、しかもさとりを求める人の道を捨てないのが、菩薩の行である。」

このことばを聞いたときに、文殊のひきいる大衆のうちの八千人の天人の子らがみな無上のさとりをもとめる心を起こした。

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