【対機の理法と修行】

基本的には、別に頭脳明晰な人が
如来になるというわけではない。ただ、如来は一切を知っているのである。それで、目の前のことがらについてすべて当事者として振る舞い、しかも対機の対応を為す。

世人が公(おおやけ)と言うのは、今現在についてのことのみである。その一方で、対機というのは過去・現在・未来について完全な理解(把捉)と対応を為すということである。それで対機の理法は老いることがないと言われる。

言ってみれば、覚りに向けた修行とは、対機の法(ダルマ)を見い出すためのことがらということに他ならない。具体的には遍歴によって見い出され得るものであるが、決定的には本質的に法の句(善知識)によるしかないので、人は「法の句」によって覚ると説かれる。


2018.05.18: 誤字訂正