【観察】

自分が動揺すると、周りもまた動揺するというのが第一の観察である。
自分が平静であると、周りもまた落ち着くというのが第二の観察である。
そこで、平静であることが称讃される。平静さが動揺に転じることはないからである。

自分が動揺すると、周りもまた動揺するというのが第一の観察である。
自分が平静であると、周りもまた落ち着くというのが第二の観察である。
そこで、平静であることが称讃される。動揺は落ち着かせることができると知るからである。

自分が為すべきことを見失うと、周りもまた右往左往するというのが第一の観察である。
自分が為すべきことを見い出すと、周りもまた落ち着くというのが第二の観察である。
そこで、明知が称讃される。明知ある人は、為すべきことを見い出すからである。

自分が為すべきことを見失うと、周りもまた右往左往するというのが第一の観察である。
自分が為すべきことを見い出すと、周りもまた落ち着くというのが第二の観察である。
そこで、明知が称讃される。どこにいても、正しい道は必ず見い出され得るということを知るからである。

正しい信仰が、平静さのもといである。聖求が、明知を育むものである。
自分の才能を信じ、よいものを見つけようとする人が、目利きと称されるようになるようなものである。
信仰も聖求も素質才能にはあたらない。誰もが保つことができるのが信仰であり、誰もが抱くことができるのが聖求である。

正しい信仰は、明けても暮れてもいつでも保っていても誰もそれを奇異の目では見ない。
聖求は、いくら強く抱いていても誰も非難し得ない。平静さと明知は、世俗の人々にとっても称讃に値するものだからである。

自分の為すべきことが分からない人は、せめて正しい行為を為せ。
正しい行為には、はっきりとした特徴がある。その特徴とは、(自分を含めて)いかなる誰をも悲しませることがないということである。

正しい行為が何か具体的に分からない人は、せめて正しい言葉を語れ。
正しい言葉には、はっきりとした特徴がある。その特徴とは、ただ一つのことを語り、(相反する)二つのことを語らないということである。
賞賛と非難の言葉はこの特徴を欠くと知って、聡明な人は口にするな。

正しい言葉が具体的に分からない人は、せめて口をつつしめ。
愚かな者、浅はかな者は、余計なことを口走っては火に触れたように苦しむからである。
一度口にしたならば、最速の乗り物で追いかけても追いつくことはできない。それで、つつしみは最上の振る舞いだと言われる。

自らつつしんでいる修行者は、表情に表れない真相を見、また声なき声を聞くであろう。
そうして苦の真実を知ったならば、智慧を生じて仏が出現する。それが覚りの真実である。