【覚りの道】

覚りの道は、感情をなくせというのではない。 感情に翻弄されない自己を確立せよと言うことである。 その先に、情を超えた真如が存在する。 真如を知った人は、世間のことがらから解脱する。

覚りの道は、思考するなと言うのではない。 見聞きしたことを正しく吟味して、真理を体得せよと言うことである。 その先に、あらゆる思惟・考研を超えた智慧が存在する。 智慧を知った人は、この世のすべてを理解する。

覚りの道は、自らの直観を無視せよと言うのではない。 世のことがらに触れて直観したこと、予感したことの真偽を正しく取捨選択して、種々雑多なことをせずに覚りの道に専念せよと言うことである。 その先に、勘に頼った生活を超えた純粋観照が存在する。 それによって生きる人には憂いがない。 それによって振る舞う人には不吉なことがない。

覚りの道は、感覚的感受を捨て去れと言うのではない。 それでは木石と変わらない。 世の一切(眼耳鼻舌身意による感受)に触れても、識別作用を生じない境地に至れと言うことである。 形態(rupa)の解脱を達成した阿羅漢がこの識別作用を終滅せしめている。 これを(一切の苦悩からの)解脱と呼ぶ。

真如を見ることは容易ではない。 そして、真実を知ることもまた難しい。 それゆえに、ほとんどの人々は解脱しないのである。 真如を見れば心解脱が完成する。 その真実を知った人は争うことがない。

人として生きながら人間じみたあらゆるものを削ぎ落としたとき、真如が出現する。 ごくわずかでも執著の根を残しているならば、真如は出現しない。 悪を捨て去り、さらに善からも離れたとき、「あり得べき究極のそれ」と共に真如は出現するであろう。 真如ゆえに善悪を超えた「それ」が現れ、「それ」ゆえに真如が覚知されるのである。