【心解脱者】

今日、二番弟子が「一円の公案」を解いた。 本人も確認中であるが、おそらく心解脱を果たしていると認められる。 実際に、私が提示した公案を縁として心解脱者が出たのは正直嬉しい。 彼は、私に縁のある一人目の心解脱者となった。 2011年5月28日は、長い歴史の中においても特に記念すべき日と言えよう。 如来に縁のある心解脱者は長老と呼ばれるが、長老が出現したのは実に1300年ぶりである。 今日を境にして、多くの長老が出現することを期待したい。

ところで、私自身、公案を縁として心解脱した。 それゆえに、公案が心解脱に役立つものであることは承知している。 それでも、人々(衆生)に敢えて公案に取り組むことを勧めず、観(=止観)に取り組むことを勧めているのは、公案の効力とその危うさの両方を知っているからである。

観に比べて、公案はより具体的である。 しかし、それゆえに道に迷ってしまう危険も大きい。 一つ一つの言葉にとらわれてしまうと名称(nama)作用に翻弄されて、公案は決して解けないからである。 公案に心が転じられては話にならない。

公案が解脱に役立つものとして成立するのは、公案を縁として心解脱した人が、まさしく公案に縁があって心解脱した場合だけである。 そして、公案に取り組む前にその縁を知ることができないゆえに、修行者が公案に取り組むことは一種の賭けのような側面を持っている。

このような理由で、人々に広く公案を勧めることはやはりできない。 どうしても公案に取り組みたい修行者は、私か、あるいは長老と密に連絡し合って、道に迷うことがないようにして欲しい。 私よりもその長老の方が頼りになるだろう。 少なくとも誠実さにおいて、その長老は私(=SRKWブッダ)以上の方だからである。


[補足]
二番弟子は、その後さらに「(SRKWブッダ版)黒い鏡の公案」も合格点で通過した。 これで、私が彼に教えるべきことはすべて教え終わった。 後は、慧解脱を果たすだけである。 心解脱者は、今後の修行は不要である。 慧解脱は因縁によって起こることなので、気をつけているだけで起こるべきときに起こるのである。