【聖求とは何か】

仏教にふれたある人々は思ったに違いない。

 「ニルヴァーナはそれほどまでして求めるべき価値のあるものなのだろうか...?」

しかし、この問いによっては究極には至れない。 これは聖求とはならないものである。 学識ある人はそうではない正しい問いを見い出し、その正しい問いの答えとしてついに智慧を得るのである。 その根底にあるものが聖求である。

万巻の書を読破し千巻の書を著しても、求めるものが違っていては究極に至ることはできない。 その一方で、経典の一行を受持し、たった一言の善知識を耳にしただけでも、求めるものが正しい人はニルヴァーナに到達する。 聖求の人の覚りは一瞬のできごとである。 そして目覚めた人は衆生に逆戻りすることがない。

世人は欲しいものが手に入らないと言って嘆く。 すでに道を見いだした筈の修行僧でさえもそのように口走る者がある。 しかし欲しいものが分かっているということそれ自体が迷妄の所産である。

聖求は求めを超えた求めである。 それは、生まれた後に求めたものではなく、生まれる前から求めているものでもない。

人は覚るために生まれてくるのではない。 しかし生まれた人の中には自ら聖求を起こし、聖求を(こころに)覚知して、ついに解脱する人がある。 覚った人は皆そうである。 それゆえに安らぎを求める人は自らのこころに問うて道を求めよ。 真実を知ろうと熱望せよ。