【智慧の認知と解脱】

衆生は智慧を智慧であると認知することができない。 もし衆生に『これが智慧ですよ』と示してあげさえすればそれが智慧だと衆生が認知できるとするならばもろもろの如来はそのように広く智慧を示すであろう。 如来は衆生にひとしく解脱して欲しいと思うからである。 しかしながら、そのようなことによって衆生が解脱することはない。 それどころか、衆生は示された智慧に連なる一群の智慧によっては解脱できなくなってしまう。 それは衆生の解脱を妨害するものに他ならない。 かれの覚りの間口を狭めることになるからである。 もろもろの如来は出し惜しみして智慧を智慧だと示さないのではない。 それは衆生を悲しませる行為であると知って、この智慧が智慧だとは決して示さないのである。

衆生は智慧を智慧であると認知することができない。 菩薩でさえそうである。 しかしながら、自ら智慧を見い出し、智慧を得て、その得たものに従って生きる決心をした人は解脱する。 決心したことによって解脱するのではない。 見い出した智慧が確かに智慧であるゆえに解脱するのである。 その瞬間に起こることは摩訶不思議なことである。 自ら智慧を見い出し、智慧を得たその人は、その得た智慧を智慧だと認知しないのに解脱を果たすからである。 すなわち、決して裏切られることのないものを信じて精進する人が、その決して裏切られることのない真理(=智慧)を見い出し、その決して裏切られることのない法(ダルマ)の作用によって解脱するのである。

智慧を見た人は発心する。 智慧を得た人は解脱する。 これらがこの世における最上のことがらである。 こころある人は、智慧の認知の有無にこだわらず、自らの道を歩めかし。 解脱したならば解脱したという知見を生じるであろう。 その知見(解脱知見)とともに智慧の認知が為し遂げられて、いたるところ仏国土と化す。 それは人の完成である。 それは覚りの完成である。