【せめて発心せよ】

仏教について会話するところに(第一の)善知識は出現する。 そして、それは発心の機縁となる。

およそ仏教とは無縁のように見えるところにさえ(第二の、真実の)善知識は出現する。 すでに発心している人がその稀有なる言葉を耳にして、その真実の真相を知ったならば解脱を生じる。

この事実は、覚りが段階の説にしたがうことを擁護するものではないが、覚りはこの二段階を踏んで生じることは間違いない。

発心した人は、必ず覚るであろう。 かれが道を逸れることはあり得ない。 それゆえに、発心した人を〈道の人〉とも呼ぶのである。

実際に解脱することは難しい。 せめて発心することを為し遂げよ。 しかし、発心した人の前にはまるで用意されていたかのように善知識が出現するであろう。 そうして、人はこの二段階を周到に上りつめてついに解脱するのである。