【堂々巡りに陥らない人】

熱心に知恵の輪に取り組む人は、まるで堂々巡りをしているようでいても最後には知恵の輪を解く。

真実を知ろうと熱望する人は、まるで堂々巡りをしているようでいてもついには真理に辿り着く。

他ならぬ自分自身を信じ、道を求めるならば、人はついには覚りへと至る。 それがまさしくそのようであることそれ自体が法(ダルマ)である。 それゆえに、こころある人は堂々巡りのただ中にあっても決して自分自身を見失ってはならない。

知恵の輪に取り組んでいて堂々巡りに陥った人は、悲観して思うであろう。

 『これまでにやったことはまるで無駄だった。 これは正解ではないという誤った手順は山ほど分かったが、それらは正解手順に辿り着くための知見としては何の参考にもならないものだ。 私はまだほんのわずかさえも知恵の輪を解いてはいないのだ。』

しかし、実際にはその一見して無駄な努力は最後の最後になって報われることになる。 それは、かれ自身予想もしない形で結実する。 何となれば、そのような正しい努力があればこそ知恵の輪を解いたときに確かな感動を味わうことができると言えるからである。

それと同じく、真実を知ろうと熱望する人にもまるで堂々巡りに陥った気がして悲観する者がある。 しかし、それは本来悲観するにはあたらないことがらなのである。 何となれば、そのまるで無駄に思える真理の探究があればこそ観(=止観)を完成したときに覚りの大歓喜たる〈特殊な感動〉を味わうことができると考えられるからである。 そして、この〈特殊な感動〉を味わうことがなければ解脱することはあり得ないと言えるのである。

もちろん、知恵の輪に取り組んだ人が最後まで諦めずに熱心に取り組めばこそ知恵の輪は解けたのである。 同様に、覚りも最後まで諦めずに取り組んでこそ解脱は起きるのである。 それゆえに、こころある人は真実を知ろうと熱望せよ。