【聖求の人・聖求に欠ける人】

仏とか解脱とか覚りとかニルヴァーナとかの言葉を耳にして、それらに興味を持った人。 その人は、もうそれだけで聖求があると認められる。 なんとなれば、世人はそもそもそのようなものに興味を示すことはないからである。 そして、聖求のある人は皆必ず覚りに至るであろうことは間違いない。 なぜならば、人はこころから求めるものを必ず手に入れることができるからである。

しかしそうは言っても、現実に覚りに至る人は少ない。 歴史もその事実を冷徹に語っている。 なぜ、多くの人々は聖求がありながら覚りに至らないのであろうか。 誰にもその理由を説明することはできない。 如来であってもそれを説明することはできないことである。 しかし、強いてその理由を述べるならばそれは多くの人は聖求があっても聖求に欠けるところがあるためであると言わざるを得ないということである。

しかしながら、聖求の人が聖求を欠くということは本来あり得ないことである。 聖求があれば、それはつねに完全なものとなるに違いないからである。 ここで言う聖求を欠くという表現は、あくまでも現象説明のための導入表現に過ぎない。

ここに至って、世の中で現実に起こっていることは次のことであると言うことができよう。

 「聖求に欠けるところなどないのに、聖求に欠けるかのように振る舞う人々が少なからずいる」

ゆえに、もろもろの如来は説く。

 『いかなる人も、ついには等しく覚りに達するであろう。』