【仏弟子】

この世では、仏弟子だけが円かなやすらぎ(=ニルヴァーナ)へと到達する。 しかし、如来に何かを問うゆえに仏弟子なのではない。 如来に親しむゆえに仏弟子なのではない。 では仏弟子とはどのような人なのであろうか。

この世では、ことに臨んで、あり得べき究極の問いを発する人が円かなやすらぎ(=ニルヴァーナ)へと到達する。 したがって、ある人が今現在異教の徒であり、あるいは今現在外道の者であるとしても、そのこと自体は実質的に問題とはならない。 ことに臨んだそのときにあり得べき究極の問いを発する人があるならば、かれは間違いなく仏弟子であるからである。

たとえ真実のことばを耳にしても、つまらないことが気になって本質的なことを知ろうとしないならば、かれが究極に到達することはおそらく遠いこととなる。 つまらないことがらに喜びを感じ、大いなる楽しみを望まない者は、究極に達することなくくずおれてしまうからである。 見えないものを見て世のすがたをさとり、聞こえない声を聞いて人のすがたをさとる人は、自らの観(=止観)を完成させてついに苦悩から解脱する。

人に何かを問うことが道なのではない。 自らのこころに問うてこそ道は見い出される。 そして、そのようにして見い出された道を歩んでこそ根本の問題は解決されるのである。 しかしながら、このことをこのように知って、それでも敢えて他の人に向かってこころからの問いを発するならば、覚りの機縁を生じるであろう。 実に、人の覚りの機縁とは摩訶不思議なものであるからである。