【真理を領解するということ】

賢者は、よく説かれた真理の言葉を耳にしてそれがまさしく真理であると理解する。 しかしながら、愚かな者どもは、よく説かれた真理の言葉を耳にしてそれを説明されても理解しない。

ここで、次のように考える人があるであろう。 『自分は、よく説かれた真理の言葉を耳にしてそれがまさしく真理であると理解した。 それゆえに自分は暗愚ではない。』

しかし、賢愚ということはそう簡単に片づけられることがらではない。 なんとなれば、次のこともまた真実であるからである。

・ ある人が、愚かな者どもがよく説かれた真理の言葉を耳にして、それを説明されても理解せず、教えを他人事のように扱っているその様子を眼のあたりにして、彼ら(彼女ら)はまさに愚者であると感じたならば、そのように感じたその人もまた愚者なのである。

・ ある人が、愚かな者どもがよく説かれた真理の言葉を耳にして、それを説明されても理解せず、曲解し、うち捨て、教えを道の歩みの糧とはしないその様子を眼のあたりにして、彼ら(彼女ら)はまさに愚者であると感じたならば、そのように感じたその人もまた愚者なのである。

・ ある人が、愚かな者どもがよく説かれた真理の言葉を耳にして、それを説明されても理解せず、それどころかかえって教えを誹謗中傷するその様子を眼のあたりにして、彼ら(彼女ら)はまさに愚者であると感じたならば、そのように感じたその人もまた愚者なのである。

・ またある人が、よく説かれた真理の言葉を耳にして、それを説明されなくても深く理解し、あるいは説明されて深く理解し、教えを他人事とせず、兎にも角にもその教えを大事に取り扱うならば、その人は実は賢者とは言えない。

・ またある人が、よく説かれた諸の真理の言葉を耳にして、それを深く理解し、あるいは説明されて理解し、曲解せず、丁寧に集めて纏め、その教えを自らの道の歩みの糧とするのだと決意したとするならば、その人は実は賢者とは言えない。

・ またある人が、よく説かれた真理の言葉を耳にして、それを深く理解し、あるいは説明されて理解し、教えを尊敬し・その教えを知ったことを歓喜するならば、その人はとても賢者とは言えない。

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愚かな者どもは、そもそも教えを理解しない。 しかし別の愚かな人々は、教えを理解したつもりでいるが、しかし教えを理解したつもりでいることによってかえって教えを理解できないでいるのである。

愚かな者どもにとって、教えを正しく理解することは難しい。 しかしながら、賢者はそれを容易に為し遂げる。 それぞれの違いは、心構えの違いにのみ帰せられることである。 それゆえに、こころある人は誰に頼ることなく自らに依拠して、よく説かれた真理の言葉をこころに領解せよ。 ものごとの真相を自ら注意深く吟味して、よく気をつけて世を遍歴せよ。