【発心すること・解脱すること】

この世には、仏教に興味があり道を歩んでいると自認していても、いまだ発心していない人は多い。 そして、人は発心しない間は中道を知ることができず、覚りに到達することはあり得ないのである。

愚かな者どもは、ただ聞きかじったことがらを口にするだけで、苦悩の終滅に至る道を歩むことがない。 かれらは、自分の行きつく処を見て愕然とすることになる。 仏のことばを信じることができない者は、くずおれた人生を送り、悲観に暮れて泣く。

世の歴史と事実とを鑑みるに、覚りに至る人は少ない。 そもそも、発心する人が少ないからである。 それにも増して、『人は誰でも覚れる(もちろん、自分自身も覚れる)』のであるということそれ自体を、信じる人が少ないのである。 釈尊の経典を読んで『人は誰でも覚れる(もちろん、自分自身も覚れる)』のであるということを信じることができず、あるいはまた現代の仏たる私(SRKWブッダ)が説く理法のことばを聞いて『人は誰でも覚れる(もちろん、自分自身も覚れる)』のであるということ信じることができないならば、覚りは遠いこととなるであろう。

覚りの境地は、世における最上の境地である。 それは、本当のことである。 それがまさしくそうであることを知って、もろもろの如来は世に広く理法を説く。 すべての人々に、ひとしくこの安らけく境地に至って欲しいと思うからである。

こころある人は、何よりも自分自身を信じ、自ら道を見いだしてついにこの円かなやすらぎ(=ニルヴァーナ)へと到達せよ。 発心も、解脱も、やすらぎも、他ならぬ自らに依拠することによって体得されるものであるからである。