【求道のはじめと終わり】

すぐれた行いを見て、自分もそのようにできるようになりたいと思うことは、求道のはじめである。 そして、すぐれた行いを見て、「これはまさしく(生まれて初めて知った)すぐれた行ないである!」と心の底から思うことが、求道の終わりである。 なんとなれば、人はそのようにして解脱するのであるからである。

すぐれたことばを聞いて、その真意を理解できるようになりたいと思うことは、求道のはじめである。 そして、すぐれたことばを聞いて、「これはまさしく(生まれて初めて知った)すぐれたことばである!」と心の底から思うことが、求道の終わりである。 なんとなれば、人はそのようにして解脱するのであるからである。

すぐれた想いに触れて、自分もその想いの礎を確立した人になりたいと思うことは、求道のはじめである。 そして、すぐれた想いに触れて、「これはまさしく(生まれて初めて知った)すぐれた想いの世における現われである!」と心の底から思うことが、求道の終わりである。 なんとなれば、人はそのようにして解脱するのであるからである。

こころある人は、すぐれた行ないを見て、またすぐれたことばを聞いて、あるいはまたすぐれた想いに触れて、自らに依拠することの本質と、まるでそれに呼応して出現するかのような諸仏の智慧の真意とをさとり、さとり終わって、一切の苦悩から解脱せよ。