【真実の語らい】

語らいに喜びや楽しみがあるから、人々は語らう。 もし、語らいに喜びも楽しみも無いのであるならば、人々が語らうことは無いであろう。 しかしながら、語らいを喜び楽しんだその果てにおいて、「語らいは喜び楽しむためにあるのだ」と考えるならば、それではその語らいは語らいとはならない。

よく気をつけて語らう人は、語らいの喜びや楽しみに耽溺しない。 たとえば、真の食通が決して過食しないようなものである。 真の食通は、満腹感では無く、食事の始めと途中と終わりとにおけるそれぞれの味わいの余韻を楽しみとするからである。 真実を求める人は、そのようにして本末転倒を避け、自分自身を全うするのである。

円かなやすらぎ(=ニルヴァーナ)を正しく求める人々の語らいも、そのように為される。 こころある人は、語らいによって真の喜びや楽しみであるところの究極の「それ」を我がものとし、語らいの喜びや楽しみそのものには耽溺しない。 それゆえに、彼らの語らいはつねに穏やかで、それぞれの会話は爽やかな余韻を残すことになる。

思惑を捨て真実を語る人が、(因縁によって)ついに真実のことわりに到達する。 説明できないが、その人の真摯な問いが真実を答えを他の人の口から引き出し、引き出された真実の答えがその最初の問いを発した人にさらに究極の問いを発せしめる機縁となるからである。 そして、そのようにして世に出現した究極の問いと、それに呼応するかのように直ちに見い出されたその答え(=問いのかたちに色づけされた究極の答え)こそが、〈善知識〉である。 そして、聡明な人はこの〈善知識〉によって自らの覚りの道を全うするのである。