【人なれば誰しもが解脱し得る】

知恵の輪は、決してそれぞれのピース(部品)加工の精密さや精巧さを売り物にしているわけではないが、よくできた玩具である。 知恵の輪を構成するそれぞれのピース(部品)は、一見して粗雑な印象を与えるが、実はその粗雑さ自体が意味を持つようにうまくしつらえられているからである。

ところで、もしも知恵の輪を、精緻・高邁な機械工学の知識に従い、あるいは加工や組み立て・分解の経験に頼って解こうとする者があったとしても、それは(それ自体は)空疎な試行となるであろう。 しかしだからと言って乱暴に扱っては、知恵の輪が解けることはあり得ないこととなる。

知恵の輪は、解けないのではない。 『知恵の輪は実は解けないものである』という見解が答えになることも無いものである。 なんとなれば、知恵の輪は解けるものであるからである。 知恵の輪を解こうと熱意をもって取り組み、注意深く、冷静に、力むことなく操作して、諦めないならば、人はついに知恵の輪を解くに至るからである。 そして、それは知恵の輪を解いたという確かな感動をその人にもたらすのである。

それと同じく、人の解脱(=覚り)は、精緻・高邁な論議の結果としてもたらされるものではない。 したがって、世に存在する仏典を、いかに精緻・精密に解釈し、それぞれの解釈にもとづいて何かを実践したとしても、それによって解脱が起きることはあり得ない。 もちろん、ぞっとするような苦行によって解脱がもたらされることなど論外である。 それはただ体を傷つけ損なう愚行に過ぎない。

しかし、人は解脱し得ないのではない。 なんとなれば、人が真実を知ろうと熱望(=聖求)するならば、ついには解脱して円かなやすらぎ(=ニルヴァーナ)に至るからである。 それを為し遂げたとき、その人は〈特殊な感動〉を味わい、瞬時にして人と世の真実のすべてを知り明らめて、一切の苦悩を終滅せしめることになる。

こころある人は、他ならぬ自らの解脱を信じて真理の探究に励み、自らが自身の道の歩みを浄めて、ついに望みを超えた究極の望みを達成せよ。 それを為し遂げたとき、「人なれば誰しもが解脱し得る」という真実を如実に知ることになるからである。