【正しい見解によって】

いかに望みが高く、願いが深くとも、誤った見解を奉じていては、その人がやすらぎの境地に至ることは遠いこととなる。 かれ(彼女)は、たとえ百人の仏に出会ってその言葉を聞き、千・万人の菩薩と歩みを同じくしようとも、かれ(彼女)自身の行き着く先は思いもよらない処となる。

たとえ志が低く、知識が浅くとも、正しい見解をいだく人は、ついに円かなやすらぎ(=ニルヴァーナ)へと至る。 かれ(彼女)は、たった一人の菩薩に出会うことでその一なる道を歩む心を起こし(=発心し)、たった一つの仏の言葉(=法の句)を聞いて心が解脱して、究極の境地へと辿り着くからである。

愚かな者は、怖れるべきことを怖れず、恥じるべきことを恥じず、避けるべきことを避けず、遠ざけるべきものを遠ざけず、まるで好むかのように苦難に満ちた悪路を選択してしまう。 その一方で、智者は怖れるべきことを怖れ、恥じるべきことを恥じ、避けるべきことを避け、遠ざけるべきものを遠ざけて、自らの歩みの道を浄めるのである。

世には、純一ならざるものだけが満ちあふれているのではない。 智者は、世の雑多なものの中から純一なるものだけを選び取るのである。 世は、すべてが迷妄に覆われているのではない。 明知の人は、世に稀有に出現する真実のすがたを眼のあたりにして、妄執を超え、ついに目覚めるのである。

こころある、聡明な人は、よく気をつけて遍歴し、ついにこの円かなやすらぎ(=ニルヴァーナ)へと到達せよ。 世間において聞き及んだ知識の多寡や優劣などへのこだわりを捨て、正しく混乱と迷いと憂いとを去って、ただ自らの正しい見解によって道を歩めかし。 真実に純一なるものは、そのような人に適時に開顕されるものであるからである。