【場と道】

覚りの道に限らず、志を同じくする人々が集うのは楽しいことである。 そこには、一つの場が形作られる。 人々は、そのような場においてこそ当初の望みを超えた高い望みをも達成するものである。 そしてまた、そのような場に触れて道を歩み始める人も少なからずある。

しかしながら、敢えて覚りそのものについて言うならば、人は場ではなく道によって究極に至るのである。 なんとなれば、覚りの起点たる発心も、覚りの終点たる解脱の縁起も、道あればこそ世に出現し、ついに人の身に体現されるのであるからである。 それゆえに、聡明な人は、場にこだわってはならない。 場に触れ、場に属することがあっても、場に浴することを避けよ。 わき起こる歓喜も、秘やかな楽しみも共に捨てて、場に属しつつも自身の心の静寂を護るべきである。 道の人は、場にまつわるあらゆることがらから心を解き放ち、覚り以前においても孤独の境地に励まねばならぬ。 けだし、覚りは最初から最後まで各自のことがらなのである。 そして、実にそのようにすることこそが、浄き場(=サンガ(僧伽))に真に属することに他ならないのである。

こころある人は、覚りに至る道の真実と、人の心の機微をこのように知って、よく気をつけて世を遍歴せよ。 世間のいかなる場にも属することなく、自らの心の中にこそ我がもろもろのこころの寄る辺たる浄き場(のもとい)を現出すべきである。 人は、まさにそのようにして心身を合一せしめ、つとめて正しい道を歩み行くのであるからである。